[#表紙(表紙.jpg)] 千里眼 堕天使のメモリー 松岡圭祐 目 次  ハローワーク  千円札  岬美由紀  設立  襲撃  奇跡  パワーハラスメント  アーティスト  乗り換え  ドップラー効果  ポア  地震  マグニチュード  恐怖の感情  マンメイド・アースクェイク  希望の星  魔手からの救出  ビジネス・パートナー  崩落  歴史の創造  症例  幻の地下街  溺死  迎えの使者  美しく青きドナウ  理解  絶望の記憶  事故死  至近距離  複雑性PTSD  カウントダウン  多面構造  秋   「千里眼」シリーズを振り返って [#改ページ]   ハローワーク  臨床心理士の派遣先はさまざまだ。  スクールカウンセラーとして学校に赴くこともあれば、病院の精神科、保健所、教育センター、リハビリテーションセンター、福祉センターに児童相談所。  家庭裁判所や少年院、保護観察所や刑務所にまで足を運ぶ。  当然、行く先々で求められることはさまざまだが、それら心理学の専門知識が必要になる場所よりは、ハローワークという派遣先は楽しそうに思えた。  今年三十五になる臨床心理士、牧野高雄《まきのたかお》は当初、そう信じた。  就職というのは前向きな行動だ、いろいろ問題を抱えてマイナス面が浮き彫りになっている人々を相手にするよりは、ずっと興味深い話ができるに違いない。  ところが、先日の池袋での出来事に引き続き、新宿の職安通りに面したハローワークでも、牧野は己の見込みの甘さを痛感させられることになった。  健全な就職希望者は、職業相談の窓口を訪ね、そのまま問題なく帰っていく。そんな窓口の脇に設けられたもうひとつのコーナー、長テーブルに三、四人が並んで座れるようパイプ椅子を据えた場所にまわされてくるのは、一風変わった連中ばかりだった。  それも、外見は人並みどころか、充分にゆとりを持って暮らせていそうな血色のよさと、人あたりのよさそうな笑顔を身につけている。内面の問題は見ただけではわからないという、いい証明だった。  牧野のほか、ふたりの臨床心理士が横でそれぞれ相談を受けつけている。牧野が担当しているのは、心身ともにいたって健康そうな若者だった。 「ええと」牧野は書類を見た。「鳥沢《とりざわ》……幸太郎《こうたろう》さんですね?」  向かいに座った青年は、書類にある三十一歳という年齢よりはかなり若く見える、痩《や》せた長身の男だった。それなりにこぎれいで、顔も整っていて、どちらかといえばハンサムといえるほうかもしれない。ただし、無職にありがちなどこかのんびりした態度や、緊張感の足らない表情が、引き締まっていればましに見えそうな顔をだらしなく弛緩《しかん》させてしまっている。 「はい、そうです……」と幸太郎は答えた。 「それで、どういった相談がおありですか?」 「相談……、は、特にないんですけど……」 「……でも、仕事がなかなか決まらないんでしょ?」 「そうですね。ええ、まあ、それが問題といえば問題ですね」 「就職相談のほうで、臨床心理士と話してみたらと勧められて、こちらにおいでになったわけですから、もっと積極的に心のなかを打ち明けてみましょうよ。ねえ、鳥沢さんは、いままで事務の仕事をしていたわけでしょう? そこをお辞めになったってことは、なにか理由があったわけですよね?」 「理由っていうほどのものじゃないですけど。……つまらなかった、っていうか」 「ほう。どんなふうにつまらなかったですか」 「べつに……。贅沢《ぜいたく》って言われるかもしれないですけど、変化のない日常つづきで、せっかく大学を出たのに、三十過ぎてまでコピーをとったりお茶|汲《く》んだりが仕事だし……」 「それも立派な仕事ですよ」 「けど、それは僕でなくても、誰でもできることでしょう? 一生ほとんど変わらない生活で、劇的な変化も期待できないってことなら、せめてもうちょっと興味ある仕事っていうか……いや、興味はなくても、それなりに好きでつづけられる仕事っていうか」  牧野は書類に目を戻した。「希望の職業には、喫茶店の店長など、って書いてあるけど……。飲食業に興味あるの?」 「いえ。そういうわけでは……」 「じゃあ、どうして店長をやりたいと思うんですか?」  そのとき、幸太郎の隣りに座っていた相談者の女が、声高にいった。 「だからさ。何度も言ってるじゃん。年収はだいたい最低で三千万ぐらい、週休三日から四日で、出勤は一日おき、時間は昼からで、夕方には終わる。世間のその他大勢に埋没しない責任ある職業で、名前や顔がきちんと公表されて、その道のパイオニアとして尊敬されて、会社とかじゃなくわたしを頼りに顧客が来る。そんな仕事がしたいわけよ。じゃなきゃ、いらない」  その甲高《かんだか》い声は、ハローワークじゅうに響いた。辺りは一瞬しんとなり、呆気《あつけ》にとられた人々の視線が女に降り注いだ。  牧野はひそかにため息をついた。またこの女か。  隣りの席で彼女を担当する臨床心理士は、初対面らしく困惑しきっていた。「あのう……。まずですね、常識で考えて、そういう仕事はないってのはお判りですよね?」 「ないって何? ここ、職業を探すとこじゃないの?」 「そうですけど……」 「じゃあ探してきてよ。わたしに紹介してよ。先生、ないって言い切ってるけど、この世のすべての仕事、見たことあんの? 日本にも外国にも、すっごいお金持ちの人とかいるじゃん。ああいう人たちってなんの仕事してんの? それわたしに紹介してくれるだけでいいんだけど」 「そんなのは……ここでは斡旋《あつせん》してないでしょうし、私にも……」 「わからないっての? はぁ。無能ね」  でた。無能、そのひとこと。  彼女を見るのは初めてではない。以前にも池袋のハローワークにやってきて、そのときは牧野が相談に乗った。  名前は京城麗香《きようじようれいか》、これまた二十七歳という実年齢とは思えないほどの若さを保ったルックスの持ち主だ。幼さといってもいいかもしれない。服装は派手で、大人びたものを好んで身につけているようだが、赤いジャケットにエルメスのオレンジいろのスカーフなど、組み合わせがまるでなっていない。  ただし、顔はノーメイクにして人目を惹《ひ》くほどの美人で、とりわけ大きく見開かれた瞳《ひとみ》は輝きに満ちている。どこか意地悪そうで、別の場所で会ったのならその少女のように小悪魔めいた微笑も魅力的に感じられたかもしれない。  だがここでは、攻撃的な姿勢の麗香は、相談相手の臨床心理士に遠慮なくその矛先を向けてくる。油断は禁物だった。  以前に牧野に対してそうしたように、麗香は担当の臨床心理士にまくしたてた。「さっき、どっかの聞いたこともないみたいなちっぽけな会社でファックスの送受信をする係、みたいな仕事をおおせつかったんだけどさ、冗談じゃなくない? ファックスなんて誰でも流せるじゃん。そんなの、これやっとけみたいに偉そうに言う奴がいたらさ、最低だと思わない?」 「……雇い主だったり、上司だったりするでしょうから、最低ってことはないと思いますが」 「嘘ばっか。そんな仕事を受ける輩《やから》なんてさ、せいぜい……」  その先は、聞くに堪えない差別的発言の連続だった。  いわゆる社会的弱者にあたる人々をおおいに蔑《さげす》んだうえに、口もとを歪《ゆが》めて笑い飛ばし、ファックスの送受信など頭の悪い猿でもやってのける仕事だと断じた。  さらに、この世のほとんどの仕事にあたる事務職、肉体労働、営業職について、すべてが同じく猿の仕事と言いきり、疑うことを知らない猿同然の人々なら就職することも厭《いと》わないだろうが、わたしはまともな人間だから騙《だま》されはしない、そんな人生になるくらいなら死んだほうがまし、そこまで一気に喋《しやべ》った。  周りの人々は唖然《あぜん》とするか、しらけて気の毒そうな目を向けるだけだった。  それでも麗香は、大勢の聴衆に持論を聞かせることができて満足そうにしている。さらにのぼせあがって、ハローワークそのものに対する批判まで開始した。 「こんなところで働いてる人たちってさー、ずばり負け組だよね。どんな仕事でもさ、アマチュアにその専門職に就くコツを指導してる先生って、業界の落ちこぼれじゃん? カラオケに行くと、スターになれるチャンスとかいって歌唱検定とかやってる音楽プロデューサーって、プロフィール見てみたら完全に終わってる歌手とかに古臭い曲をひとつぐらい提供しただけじゃん。メイクアップアーティストを育てるとかいってんのも、ほんとに活躍してりゃメイクの仕事で忙しいはずなのにさ、暇だから素人相手に威張る道選んでんだよね。あと小説家の世界とかでもさ、作家になる方法とか言ってるのって、聞いたこともな……」  耳をふさぎたくなる。  牧野が閉口して向かいの幸太郎を見やると、幸太郎も戸惑い顔で見かえした。  麗香の演説はつづいた。「だからさ、ありとあらゆる職業を紹介しますなんて言って、無職の人相手に優越ぶってんのも、世間のまともに働いている人からすりゃ見下されたものよね。そんなにいい就職先知ってんのなら、自分がそこに就職しなさいっての。そうでしょ? そう思わない?」  少しの不満を感じたら、すぐに裏切られたと被害者意識を持ち、猛然と反撃にでる。相手を徹底的にやりこめるまで攻撃の手を緩めない。  人格障害であることは間違いない。  この手の相談者は厄介だ。ここが病院ならともかく、ハローワークであるからには、その症状を指摘することにさえ慎重にならざるをえない。 「わかった」麗香はふいに立ちあがった。「もういい。帰る」  その麗香の目がじろりとこちらを向いたので、牧野はあわてて自分の仕事に戻った。 「と、とにかく、鳥沢さん。飲食業をやりたいという強いお気持ちがないのに、喫茶店の店長を希望されるのは、私からすればいたって不思議なことですよ。理由があれば、どんなことでもお聞かせいただきたいんですけど」 「ええ……。まあ、そうですね。その、喫茶店に限ったことではないんですけど……」  突然、麗香が手を伸ばしてきて、牧野の手から書類を奪いとった。 「どれ」と麗香は、鳥沢幸太郎の履歴書を読みふけり、けたたましく笑った。「趣味は映画鑑賞に読書、音楽鑑賞ですって? すなおにアニメにアニソンにエロゲって書けばいいじゃん」 「な」幸太郎はいきなりあわてだした。「なにを言いだすんだよ」 「ふうん。その反応は図星ってとこよね。さしずめこの喫茶店の店長って、メイド喫茶の店長やりたいってことでしょ? 正直にそう言えばいいじゃん。カウンセラーの先生、困ってるよ。喫茶っていえば歌声喫茶ぐらいしかしらない年齢だろうしさ」  牧野はつぶやいた。「そこまで老けてはいないよ……」 「あ、牧野先生じゃん。元気? このあいだ池袋で会ったよね? あー。先生がいるんじゃ、ここで紹介してる就職先のレベルも高が知れてるね。よくて池袋、へたすりゃ新大久保ってことでしょ? わたしあの国の人たちきらい。なんていうか、キムチくさい」 「きみ」声をひそめながらも咎《とが》めたのは、鳥沢幸太郎だった。  だが、麗香は不敵に幸太郎をにらみつけた。「なによ」 「あ、あの……。人種差別的発言はよくないよ。聞く人によっては、不快に感じたりするはずだよ」 「ふん。偽善じゃん、そんなの。どういうメイド雇いたいの? 安藤まほろみたいなやつ? そんな娘ほんとにいると思ってんの?」 「あ……いや、生身の人間はアンドロイドと違うってことぐらい、わかってるつもりだし……」  麗香は書類を幸太郎に投げつけた。「やっぱその手のオタじゃん。見た目はまあまあなのに、キモ。せいぜい頑張ってね」  それっきり、麗香は人々の注目を浴びながら、出口にすたすたと歩き去った。  幸太郎はしばし呆然《ぼうぜん》としたままだったが、やがて我にかえったようすで、牧野に向き直ってきた。 「こ、この際なので……」幸太郎は顔を真っ赤にしてつぶやいた。「メイド喫茶の店長になれたら、それなりに働けるって意思はあるってこと……なんですけど……駄目ですかね、やっぱり?」  牧野は絶句し、頭を抱えた。  あの京城麗香なる女に恥辱を受けておいて、怒りもせずに後押しされた気になっているとは。  この青年も彼女といい勝負だ。 [#改ページ]   千円札  鳥沢幸太郎はハローワークをでたあと、昼下がりの新宿|界隈《かいわい》を駅に向かって歩いた。  夏の強烈な陽射しが降り注ぎ、蝉の声がこだまする。暑くてたまらない。コンビニエンス・ストアが目にとまると、吸いこまれるように立ち入った。  涼むばかりが目的ではない。幸太郎は就職雑誌を手にした。  なんであんなこと言っちまったかな、俺。ため息とともに、内心そうつぶやく。  臨床心理士を相手にメイド喫茶の店長になりたいなんて訴えたって、実現するわけがない。  というより、そんな希望を心のどこかに持っていた自分に落胆を覚えざるをえなかった。結局、俺を支配するのは妄想ばかりなのか。  国分寺《こくぶんじ》の一軒家で両親とともに暮らして、独り暮らしの経験はない。ゆえに生活にはさほど不自由せず、彼女もつくらずに好き勝手な趣味に生きてきた。さすがに三十一にもなって、それではまずいだろうと思い、現実に生きようと決心したばかりだ。  ところが気持ちのどこかでは、趣味性を充足させられる職種に就きたいと願ってやまずにいる。そんな自分が嫌になる。  頭をかきながら、雑誌のページを繰った。  そろそろ決めないと、ニート以外のなにものでもなくなる。  職種別のカテゴリに分けられている雑誌だった。マスコミ関連、というページを開いても、あるのはコンサート会場の警備にミニコミ誌の編集だけ。  それでも、編集という仕事は面白そうだ。いろいろな記事をコラム風に書いていけば、いずれ自分の得意なジャンルについて触れる機会もでてくるだろう。そうなれば……。  駄目だ、と幸太郎は頭を振った。  趣味を優先させたがる、この衝動をどこかにやらねば。  ミニコミ誌の編集をしているというその会社は、新宿駅の西口から徒歩十分以内のところにあるらしかった。  幸太郎は携帯電話で連絡をいれ、いますぐ面接したいと申しでた。履歴書もあるし、ちょうどいい。  足を運んでみると、そこは古びた雑居ビル風のマンションの一室だった。  三階の所定の部屋の前まで来たとき、聞き覚えのある女の声が廊下に響いてくる。  まさか……。  幸太郎は固唾《かたず》を飲んで、半開きになったその扉をのぞきこんだ。  デスクをふたつ並べただけの簡素な、しかし雑然としたオフィスでは、口をぽかんと開けて静止している社員とおぼしき人々を前に、演説をふるう女の後ろ姿があった。 「……というわけで、わたしのいったとおりにすりゃ大部数間違いなしってこと。まずは、フリーペーパー、だっけ? |〇《ゼロ》円雑誌だなんて、そんな貧乏くさい考え方は金輪際捨て去って、全国規模の書店に流通する雑誌の創刊に踏みきろうじゃないのよ。ジャンルは小分けせずに、あらゆる読者層にウケる話題を満載するの」 「……すみません、あの」髭《ひげ》づらの編集者らしき男がいった。「私たちとしては、雑務と編集の手伝いをしてくれるパートタイマーがほしかっただけで……」 「そんな無欲なことでどうすんの。流されるままに生きて、敗者の烙印《らくいん》を押されて悔しくないの?」 「敗者……ですか」 「そう、敗者。負け犬。ルーザー。ここにぴったりと当てはまる言葉よ。東京ウォーカーの編集部が雑誌業界の勝ち組なら、あなたたちは負け組、ゴミ同然。一発逆転を狙《ねら》うために、一世一代の勝負に賭《か》けてみるのも悪くないでしょ。資金集めとかは、あなたたちでやって。わたしは編集長兼トップモデルを務めさせてもらうから。まずはさー、取材でパリに行きたいわね。シックにブリティッシュな着こなしもいいけど、創刊号はまずパリでしょ、パリ」  幸太郎はその状況に、かえって冷静な自分を感じていた。  と同時に、異様なまでの気恥ずかしさを覚える。それは、身内が人前でとんでもない醜態を晒《さら》しているのを目撃したときの心理に近いかもしれなかった。  とにかく、幸太郎は扉を入ると、社員たちに一礼し、麗香の腕をつかみ、もういちど頭をさげてから、会社の外に連れだした。  麗香は当然、抵抗した。「なにすんの。いきなり入ってきて。人殺し! きゃー!」  だが、幸太郎は自分でも驚くほどに、この女の大げさな振る舞いや言動にはなんの意味もないと理解していた。  握力を緩めることなく、そのまますたすたとマンションの玄関まで連れていって、外にでる。  表通りに戻ったところで、ようやく幸太郎は麗香を解放した。  麗香は大仰な動作で腕を振り払ってから、嫌悪のいろを浮かべていった。「なによ。わたしに何の用? 危害を加えるつもりなら警察を呼ぶから」 「呼んだらいいだろ。ちょうどそこの交差点に交番もあるし。迷惑行為に及んだのはきみのほうだと、会社の人たちも証言してくれるだろうよ。さっきのハローワークにいた人たちや、臨床心理士の先生も」 「……ああ」いま気づいたというように、麗香は目をぱちくりとさせた。「誰かと思えば、さっきの変態君じゃん。よ、メイド喫茶店長候補」 「茶化すなよ。なあ、いいか。どういうつもりか知らないが、ミニコミ誌の会社に行って雑誌を作れだなんて……」 「だってさ。就職雑誌読んだけど、マスコミの仕事がしたいって欄に、それぐらいしか載ってなかったし。しょうがないから、ちょっと趣旨は違うしヘボい会社だけど、まるで業種の違うところよりは使える可能性があるわけじゃん? だからやらせてみようと思ったわけよ。無いものはイチから作る、これ鉄則」  幸太郎は思わずため息をついた。  同じ就職雑誌を見て、同じ場所に行き着いた。俺はこの女と同じ思考回路か。 「あのな、そういうことならもっと大きな出版社に行けよ。きみのいってることを受けいれてくれるかどうかはともかく、夢をかなえたいのなら……」 「夢をかなえる? わかってないなぁ。わたしが本当に目指しているのは、雑誌創刊なんてちっぽけな話じゃないの。こんな世の中の常識にとらわれて大きい小さいを論じてたんじゃ、埒《らち》があかないじゃん。はるか遠くにあるゴールに比べたら、角川書店と、このボロいビルにある吹けば飛ぶようなミニゴ[#「ゴ」に傍点]ミ誌の会社とのあいだには、たいした距離はないんじゃなくて?」 「無茶なことを……。っていうか、さっきの差別的発言と矛盾してると思うけどな。パリに取材とか言ってたけど、フランス語|喋《しやべ》れんの?」 「全然。ヒンディー語だけは、日常会話ぐらいなら」 「ヒンディー語?」 「知らないの? インドの公用語。昔つきあってた男が調理師志望でさ。カレーの修行とかでインドに行くっていうから、語学教室に一緒に通ったんだよね。二回だけ」 「どうして二回だけ?」 「すっぱり別れたから。夢があっても金のない男って興味ないし」 「なんだよそれ……」  麗香は顔をそむけて黙りこんだ。うんざりしたかのように、小指の先で耳の穴を掻《か》く。  強がりながらも、今後のことに戸惑いを覚えているような憂いを帯びた顔。麗香がこんな人格の持ち主だと知らなかったら、魅力的にみえないこともない表情がそこにあった。 「お腹すいた」と麗香はいった。「あなた、お金持ってない?」 「……いや。電車賃だけで。メシは帰ってから食べるつもりだったし」 「もう。使えなさすぎ。いいわ、ちょっと待ってて」と麗香は、交番に向かって歩きだした。 「おい……どうするんだ?」 「お金借りるの。決まってるでしょ」 「警官にかい? そんなの、絶対に無理……」 「文無しは引っこんでてよ」  幸太郎はまたも言葉を失った。文無し。なぜそこまで言われねばならないのだ。  麗香は交番に入って、警官となにやら会話を交わしていたようだが、やがて引き返してきた。  驚くべきことに、その指先には一枚の千円札がはさまれていた。 「それ、どうしたんだい?」幸太郎はきいた。 「警察って、一般人に千円までは貸してくれるの。公衆接遇弁償費ってやつ。じゃあ、この先に漫画喫茶があるから。ふたりでお茶して、少し時間|潰《つぶ》すぐらいなら足りるでしょ」 「ふたり?」 「さっさとついてきて。ほかにいく当てもないでしょ、ニートなんだし」  ただひたすらに圧倒され、呆気《あつけ》にとられる。  いつの間にか、麗香の連れにされてしまった自分。  いったい、この女は何者だろう。  衝動的な行動ばかりが目につき、非常識な反面、警察からあっさりと金を引きだした。  それでも、ここで別れてしまうには惜しい。唐突に出現した非日常的な存在というか……。  気づいたときには、幸太郎は麗香に歩調を合わせていた。  行く手になにがあるかはわからない。でもいまは、こうすることが最も正しいことに思える。 [#改ページ]   岬美由紀  牧野高雄は、臨床心理士会の事務局がある本郷の雑居ビル前に立ち、ハンカチで汗をぬぐった。  やっと帰ってきた。  うだるような暑さのなか、駅からこのビルまで重い足をひきずってきた。真夏の太陽そのものは苦痛ではない。  ハローワークでひどく疲労してしまい、帰路に残しておくべきスタミナを使い果たしてしまった。そのことが悔やまれる。  と、コンビニの袋をさげた、三十代半ばの小太りの男が声をかけてきた。「牧野先生」  無精ひげを伸ばし、どこかぼんやりとした頼りなさを漂わせた男。ふだんから臨床心理士らしからぬ威厳のなさが特徴的だが、そんな彼すら、あの個性豊かな失業者たちに比べたらずっとまともにみえる。 「ああ。舎利弗《しやりほつ》先生。買い出しに行っておられたんですか」  舎利弗|浩輔《こうすけ》はすまし顔でうなずいた。「ええ、出前のメニューもほとんど食べ尽くしてしまったんで」 「うらやましいですな。いつもひとりで事務局の留守番を任ぜられてて……。いや、嫌味ではなく、本心でいってるんですよ」 「ほんとですか? 臨床心理士の資格を取ったのに人と会うのが苦手な僕に、理事長がなんとか与えてくれた役割ですけど……。なんなら代わりましょうか」 「ありがたい申し出ですけど、そういうわけにもいかないので。今週はずっと新宿のハローワークに詰めねばなりません。おかげで、ちょっと貰《もら》っちまってますよ」 「貰う? めずらしいですね。病院の精神科ならともかく、ハローワークで貰うなんて」  たしかに。牧野はため息をついた。  貰うというのは、この業界の隠語だ。相談者と話し、彼らの言葉を我慢して聞くうちに、こちらの精神状態が不安定になることを指す。 「ある意味で、強烈な人格の持ち主の失業者が相談に来てましてね。参りましたよ。意味不明のことばかり口走るし。相談者どうしの会話にも、とうていついていけそうにない」 「へえ。どんな会話ですか?」 「ええと……喫茶店の店長希望ってのが、じつはメイド喫茶で……。安藤まほろとか、アンドロイドとか」 「ああ。『まほろまてぃっく』ですね」 「ご存じなんですか?」 「すべてじゃないですけどね。第八話だけはHDDレコーダーの調子が悪くて、録画失敗しちゃったんで……。最終回と、その前の回はすごく泣けますよ。なんならDVD─Rに焼いてあげましょうか」 「……いえ。それにはおよびません」  再発しそうだ。牧野は心のなかでそうつぶやいた。  舎利弗に代わってもらうというのは、案外好ましい選択かもしれない。彼ならあのオタク青年の相手に適任だろう。  ただし、舎利弗をもってしても、あの京城麗香だけは手に負えまい。  また彼女に会う可能性があると考えるだけで、全身に鳥肌が立つ。どうすればいいのだろう。あそこまで身勝手で自己中心的な女に冷静に対処できる臨床心理士がいるのなら、ぜひお目にかかりたい。  そのとき、低いエンジン音が路地に轟《とどろ》いた。  滑りこんでくるオレンジいろの車体、地を這《は》うような車高の低さ。  ランボルギーニ・ガヤルドは道幅の狭さをまるで意に介さないがごとく、スムーズな取り回しによってぴたりとビルの駐車場におさまった。  エンジンが停止し、辺りがまた静かになる。  ドアを開けて降り立ったのは、すらりとした身体を質のいいスーツに包んだひとりの女だった。  その女を見たとき、牧野は救いの女神が現れたかのように感じた。そうだ、彼女だ。  岬美由紀だ。  モデルのような抜群のプロポーション、小さな顔に大きな瞳《ひとみ》、美人ではあるがまだあどけなさを漂わせた少女のような面影もある。  二十八歳という実年齢よりはずっと若くみえる。しかし、その物腰にはいっさいの隙がない。卓越した運動神経の持ち主であることは、身のこなしからも見てとれる。無駄のない動き。辺りに絶えず注意を払っているかのような挙動は、野生の豹《ひよう》のようだ。  臨床心理士会の誇る、最強の女が帰ってきた。  牧野は思わずつぶやいた。「岬先生……。ああ、よかった。ここでお会いできるとは、なんたる幸運でしょうか」 「牧野先生? どうかされたんですか?」岬美由紀はゆっくりと歩いてきた。「あ、舎利弗先生も。こんな暑いなか、おふたりで……」  舎利弗が美由紀にいった。「いや、いま中に入ろうとしてたところだよ。美由紀、防衛省のほうはどうだった? 無事に済んだかい?」 「また防衛大臣じきじきに復帰を求められちゃった。警視庁のほうも、小言いってくるかと思ったら警視総監賞だって」 「そりゃそうだよ。全国民が判断能力を失ってて、警視正も機動隊も暴走してたんだよ。きみはそれを覚醒《かくせい》させたんだから。感謝されて当然さ」 「氏神《うじがみ》高校のみんなが無事卒業できたのは嬉《うれ》しかったけどね」美由紀は牧野に目を移してきた。「ところで先生、わたしになにか御用でも?」 「ええ、まあ、そうなんですけど……。たいしたことではないので……」  その瞬間、牧野は、岬美由紀が千里眼と呼ばれる所以《ゆえん》を目撃した。  牧野を見つめる美由紀の目は、常人ではありえないほどの速さで動作した。  眼球はわずかながら上下左右に移動し、虹彩《こうさい》が瞳の大きさを自在に拡大収縮させて光量を調整する。水晶体がまるでロボットのように瞬時に焦点を変えていくさまは、瞳のいろの褐色濃度の変化に表れている。  コンピュータ制御されたカメラレンズのような目の動きは、一秒以下にすべての情報を得たらしく収束した。  そして、美由紀がいった。「疲労と同時に憂鬱《ゆううつ》を感じ、意気消沈してますね。それからご自身の精神状態が不安定になっている兆候を、みずから感じて理解しておられるみたい……。不安神経症に似た気分にさいなまれることも少なくありませんね? 察するに、耐え難い相談者との出会いがあって、今後もその人と会う可能性があり、永続的にストレスを溜《た》めこむのではないかと危惧《きぐ》しておられる……」 「その通りですよ! ……いや、失礼。つい大声をあげてしまいました。しかし、素晴らしいですな……。こんなに早く私の表情から感情を読みとるなんて……」  私も臨床心理士のはしくれだ、いま岬美由紀がどのような観察をおこなったのかは理解できる。  牧野は思った。彼女は、私の上まぶたの垂れ下がりぐあいから、疲労もしくは悲哀の可能性があることを知った。と同時に、目の焦点が失われていることから精神的な疲れが大きいことも悟った。  驚くべきは、こちらが作り笑いを浮かべていたにも拘《かか》わらず、苦悩の感情を正確に読み取った点だ。唇の両端が、笑いを生みだす筋肉ではなく、頬の筋肉によって故意に押しあげられていることに気づいたのだろう。  これが相談者のビデオを観ながら、それもスロー再生や一時停止を交えながら観察した結果であれば、臨床心理士としてはさほど驚くべき観察とはいえない。  だが岬美由紀は、ふつう人間が目を合わせたことで表情を消そうとする、その寸前の〇・一秒以下の情報をすべて把握してしまうのだ。 「信じられん……」牧野は思わずつぶやいた。「噂には聞いていたが、実際にあなたの技能を体験すると……まさしく驚異ですな」 「あ、申しわけありません。失礼だったでしょうか?」 「いや、とんでもない。ただもう、びっくりしただけですよ。あなたの動体視力に……」  岬美由紀が女性自衛官初のF15要撃戦闘機パイロットとして名を馳《は》せたのは、今から三年前、彼女が二十五歳のころだったはずだ。  当時、牧野は新聞を通じて彼女の存在を知りえていただけだった。まさかその岬美由紀元二等空尉が臨床心理士に転職し、パイロットとしての動体視力と心理学の知識を併せ持ったことで、これほどの能力を身につけようとは。 「あなたの前ではいっさいの嘘がつけないという評判を聞きましたが、本当にそのようですな。岬先生、感服いたしました」 「知識と経験の面では、牧野先生には到底及びませんよ。でも、そんな先生の手を焼かす相談者って……?」 「京城麗香という女性です。ハローワークの常連なんですが、ご存じないですか」 「さあ。このところはスクールカウンセラーの仕事が多かったんで……。でも、その麗香さんっていう人が問題なら、わたしが会って話をしてみますよ」 「それはぜひ! 願ってもないことです」  美由紀はにっこりと笑った。「理事長に相談して、明日のハローワークの担当を牧野先生からわたしに変えてもらいます。じゃ、またのちほど」  それだけいうと、美由紀は会釈をして、ビルのエントランスを入っていった。  安堵《あんど》とともに、ほっとひと息つきながら牧野はいった。「だいじょうぶかな……」  舎利弗がきいてきた。「なにがですか?」 「岬先生のことですよ。あんなに相手の気持ちが的確に読めるんじゃ、貰《もら》ってしまうものも半端じゃないと思うが」 「ああ。それなら心配いらないでしょう。彼女はストレスを溜めないように生きているんです。完全に相談者側の問題を解決しますからね」 「完全に? そんなこと、ありうるんですか? カウンセリングにおいては、相談者の悩みは数年にわたって徐々に和らげていくもので、完治となるとなかなか……」 「それが、彼女の場合はそうでもないんです。……そうですね、必要とあれば、この国の失業率をゼロにしてハローワークを消滅させてしまうかもしれません。その京城麗香さんひとりを、立ち直らせるためだけにね」 「まさか……。冗談でしょう?」 「いいえ」舎利弗は肩をすくめた。「クーデターを起こして政権をひっくりかえしてでも実現させてしまうでしょう。それが岬美由紀ってもんです」 [#改ページ]   設立  俺はどうしてこの女と向かい合わせているのだろう。  漫画喫茶のブース内でソファにおさまりながら、鳥沢幸太郎はぼんやりとそう思った。  成り行きまかせとはいえ、一緒に茶をしばく必要などどこにあったのか。誘いに乗った自分の意図はどこにあったというのだろう。  いま目の前にいる、不機嫌そうな顔で『ドラえもん』の一巻を読みふける女性は、ここに来るまでのいきさつさえ知らなければ、美人以外のなにものでもない。少しばかり頑固そうな面持ちも、小言を発しそうに歪《ゆが》めた口もとも、気の強そうな女という意味で幸太郎の好みにぴたりと当てはまる。  たぶん誘いを断らなかった唯一の理由はそこだろう。美人に声をかけられて悪い気がする奴はいない。  いや、大抵の男は、美人であってもここまで性格の歪んだ女はパスするかもしれない。そんな女にまでつきあってしまう俺は、単純というか下世話というか……。  ふいに麗香がじろりとにらんできた。「なに見てんの?」 「べ、べつに……」  ふん。鼻を鳴らして麗香は漫画本に目を戻した。「ドラえもんって馬鹿だよね。タイムマシンとどこでもドアがあれば地球を征服できるじゃん。っていうかそれ以前に、もしもボックスひとつですべて事足りるのに。ケロロ軍曹のほうが少しは利口よね、征服を目的にしてるぶんだけ」  やたらと角川書店を持ちあげたがる不可思議な女。それならそもそも『ドラえもん』を手にとるべきではないと思うが、小言はよそう。ここでまた大声を張りあげられたら、かなわない。  だが、その危惧は次の瞬間には現実になった。 「ちょっと!」麗香はいきなり顔を輝かせた。「これ見てよ! のび太って将来、就職できなくて自分で会社を始めるんだって!」 「ああ……一巻ではたしかにそうなってるね。でもその直後に、会社は全焼しちゃって……」 「これじゃん! これよ。ましな就職先がないんなら、自分たちの手で作っちまえばいいんじゃん! なんで今まで気づかなかったんだろ」 「まさか会社の名前はSOS団とか言いだすんじゃ……」 「なにそれ? 知らない。とにかく、会社を登記して法人を設立すればいいんでしょ。いますぐ申請書出してくる」 「おい、ちょっと待てって。会社を作るって、その諸経費は……」 「いまじゃ一円企業ってのがあるんでしょ。一円ぐらいならあるじゃん」 「はあ……。ま、落ち着いてくれないか、そのう……京城麗香さん。たしかに一円企業制度ってやつを利用すれば、確認会社として法人を設立できるけど……」 「でしょ?」 「設立のための費用は? それらもけっこうかかるはずだよ」  ところが今度は、麗香のほうがため息をついた。 「幸太郎」麗香はいきなり呼び捨てにしてきた。「あなた、わたしを馬鹿だと思ってんの? 登記費用、認証手数料のほか、印紙代、代表者印作成料などの経費。確認有限会社が二十万七千七百六十五円、確認株式会社で三十一万六千二百三十二円が、最低でも必要な額でしょ。内訳をしっかり説明してほしい?」 「……いや。特には……」 「まったく。話にならないわね。一円企業だからって、一円でなにもかも揃うと思うなんて、幼稚にもほどがあるじゃん。恥を知ったら?」 「ま、まあ……そうだね。すみません……」  なにを謝っているのだろう。自分のふがいなさに腹が立つ。いましがた麗香を責めようとしたはずなのに、瞬時に立場をひっくりかえされてしまっている。  麗香は髪をかきあげながら立ちあがった。「区役所にいってくる。あなたはここのパソコンで求人サイトに書き込みしておいて。新会社設立、社員急募って」 「本気かい? 社名も決まってないのに? それに業種も……」 「社長のわたしの名前に由来して株式会社レイカとしておいて。職種は一般事務。あ、ヒンディー語以外の外国語が話せるなら優遇。会社の業種はてきとうに書いときゃいいの。誰もそんなこと気にしちゃいないから。ただし、メイド喫茶だなんて書いたら殺すから。じゃ、頼んだわよ。さっさと仕事して」  それは、俺を社員として雇うと決めたということだろうか。給料は……?  というより、二十万から三十万ほどかかる経費を、どうやって用立てるつもりなのだろう。  だが、尋ねる間もなく、麗香はさっさとブースから出ていってしまった。  ひとり取り残された幸太郎は、ただ呆然《ぼうぜん》としていた。  正確には、幸太郎が希望していたのはメイド喫茶ではなく、ツンデレ喫茶のほうだった。麗香に従ってしまうのも、そのせいかもしれない。 [#改ページ]   襲撃  午前八時、山手通りは朝のラッシュ時を迎えていたが、クルマの流れはわりとスムーズだった。降雨とは無縁の空模様のせいかもしれない。  早くも照りつける夏の陽射しの下、岬美由紀はフェラガモのサングラスをかけてランボルギーニ・ガヤルドのステアリングを切っていた。V10気筒の低く轟《とどろ》くエンジン音を背に、三つの車線を次々に変更して路上を縫うように駆け抜ける。  他人からすれば危なっかしい運転に見えるかもしれないが、戦闘機を操ることに比べれば他愛もなかった。サングラスも動体視力を減退させる理由にはならない。  きのう臨床心理士会の事務局前で牧野に頼まれたとおり、きょうは新宿のハローワークに詰めねばならない。彼が不安を覚えている京城麗香という女性に出会うまでは、当面はハローワーク勤務になるだろう。都内のほかのハローワークに現れたら、連絡がもらえるようにあらかじめ話をつけておこう。  ぼんやりとそう思ったとき、美由紀はミラーに映った後方視界に、気になるものを捉《とら》えた。  黒のクライスラー300Cセダンが、こちらと同じように車線変更しながら尾《つ》いてくる。  まだ尾行とは限らない。美由紀はEギアのセミオートマからマニュアルに切り替え、アクセルを踏みこんで唐突に加速した。  二台のトラックが縦列に走る、そのわずかな隙間にガヤルドを割りこませて、反対側に抜ける。もしこちらを意識していたのなら、慌てて追ってこようとするはずだ。  トラックの隙間を抜ける曲芸は困難だろうし、いったん速度を落としてゆっくり蛇行、こちらの位置をたしかめようとしてくるだろう。  ところが、その予測は外れた。  突如、トラックのクラクションが鳴り響いたと思うと、直後にセダンがガヤルドの後方に出現した。美由紀と同じく、トラックの縦列のなかを突っ切ってきたのだ。  反射的に美由紀は加速した。  セダンのドライバーが決死の覚悟で追ってきているのは間違いない。なら、その礼儀に答えてやるまでのことだ。  陸橋を昇りかけてから、いきなりステアリングを左に切って歩道に乗りあげ、さらに側道へとガヤルドを差し向ける。  一メートル近い高さからの落下、そして着地。弾《はじ》けるような音とともに、突き上げる衝撃が襲う。  わずかにステアリングを左右に揺らして、シャーシが壊れていないことをたしかめる。  ドイツの資本が入ったランボルギーニは、このていどのことでは壊れない。もしそんなに柔な車体だったら、あのミッドタウンタワー事件の夜に生きては帰れなかったはずだ。  古い商店が軒を連ねる、道幅の狭い路地を見つけた。  一方通行の表示がでている。  美由紀は通りすぎてからブレーキを踏みこんで停車し、急速にバックして、路地に後方から乗りいれた。  そのままバックで路地を猛進する。  道幅にほとんど余裕はない。それでも、ミラーを見ながら通行人や自転車を微妙なステアリングさばきで躱《かわ》していく。  セダンが路地に入ってきた。  向こうは当然、フロントから乗りいれてくる。猛スピードで後退する美由紀のガヤルドに、距離を詰めてきた。  おかげで、ドライバーが互いに顔を見合わせる図式になった。  ふいに携帯電話が鳴った。ブルートゥースで無線接続された電話は、ハンズフリーで通話可能になる。  美由紀は運転をつづけながらきいた。「誰?」 「あなたの目の前にいる者です」と男の声がスピーカーから流れでた。  前方に目を凝らすと、セダンの運転席にいる若い男が、片手でステアリングを操りながら、もう一方の手で携帯電話を耳に当てている。 「運転中の携帯電話の使用は違反なんだけど」と美由紀はいった。 「その速度で生活道路を後退するのも、どうかと思いますがね」  声の響きには、わずかに外国人らしき訛《なま》りが感じられる。けれども、アジア系ではないようだ。セダンのフロントガラスの向こうに見える男は、褐色がかった髪を刈りあげたスポーツマン風だった。  痩《や》せた精悍《せいかん》な顔つきではあるが、目は死んだように輝きがない。アングロ=サクソン系の白人に思えるが、詳しいことはわからなかった。  それより美由紀には気になることがあった。 「気のせいかしら。わたしがいま見つめている人は路地をかなりの速度で飛ばしていて、それなりの緊張が伴っているはずなのに、まぶたがとろんとしていて眠そうなんだけど」 「私のことですか? 居眠り運転の心配などありません。絶えず周囲に注意を払っていますから」  美由紀はミラーを一瞥《いちべつ》し、行く手が三叉《さんさ》路になっているのを見てとった。そのなかから、またいちばん狭そうな路地を選んで、ガヤルドをバックのまま走らせる。  散歩中の老婦人が子供の手をひいている。減速させることなく、反対側の壁面にぎりぎりまで車体を寄せてそれを避け、なおも後退しつづけた。 「ねえ」と美由紀はいった。「注意深く運転しているのなら自律神経系の交感神経が過敏になってると思うけど。どうしてそんなに表情筋が緩んでるの?」 「むろん、あなたに感情を読まれないようにと思ってのことです」 「セルフマインド・プロテクションって、ある特定の詐欺集団が身につけてる技法だったわよね、たしか」 「詐欺集団ではありませんよ。歴史の陰に暗躍して、心理的操作によって人類をあるべき方向へ導こうとする……」 「……ってのが大義名分のぺてん師の集まりでしょ」 「われわれを侮辱しておられるのでしょうか」男はなおも無表情だった。「お伺いしたい、岬美由紀さん。いまどちらへ行かれるところで?」 「臨床心理士としての通常業務でね。ハローワークに行って失業者の相談に乗るの」 「新宿のハローワークでしょうか」 「よく知ってるわね」 「ある特定の相談者に会おうとしているのではありませんか」 「さあ、どうかしら」 「京城麗香に会う予定はありますか?」 「……だったら何?」 「新宿に行かせるわけにはいきませんね」 「へえ。……そうね、気が変わったわ」 「ほう?」 「そんなに気乗りしない仕事だったんだけど、メフィスト・コンサルティングに妨害されたんじゃ、これは是非とも行ってみなくちゃって気分」 「……好ましくない返答ですね」 「外人さん。上|瞼《まぶた》が下がって下瞼が上がってるんだけど。もしかして、いま怒りの感情をうっかり露呈しちゃってない? メフィストの社員としちゃ減点対象よね?」 「ならば」セダンはいきなり速度を上げてきた。「失点を取り返すまでですよ、岬美由紀」  男がフロントバンパーを衝突させようとしているのはあきらかだった。  美由紀は素早くギアをシフトアップしてアクセルを踏みこみ、後退の速度をあげて躱《かわ》した。  路地の終点が見えた。環状七号線の高架線が近い。  ひとけのない高架下は金網で覆われていた。依然として付近の道路は狭く、取り回しには充分ではない。  それでも金網ぎりぎりまで下がった美由紀は、やっと後退から前進へと転じた。  敵をやり過ごして環状線に入らねばならない。  ところが、セダンはガヤルドからわずかに距離を置いて減速すると、側面をこちらに向けた。  窓が開き、男は黒いボールのようなものを地面に転がしてきた。  美由紀は、男の手にリング付きのピンが残されているのを瞬時に見て取った。  ステアリングを切ってエンジンをふかす。  そのあいだも、美由紀は転がってくる物体の位置と、物体の内部で作動しているメカの進行状況を十分の一秒刻みで把握していた。  スプリングが作動して撃鉄《ストライカー》が雷管を打つ。火花が散って延期薬に引火。発火薬に燃え移るまで、あと一・〇秒、〇・九秒、〇・八秒……。  一気に加速して距離を置く。  直後、美由紀の古巣で手投げ弾と呼ばれたそれは、ガヤルドの後方で耳をつんざく爆発音とともに火柱を噴きあげた。  アスファルトの破片と砂埃《すなぼこり》が辺りに飛散し、ガヤルドの車体に音をたてて降り注ぐ。 「いい反応ですね」と男の声がした。  まだ通話は保たれているようだ。  行く手はガードレールに阻まれていた。ブレーキを踏みこみながら素早くステアリングを切ってターンし、体勢を立て直す。  爆発で発生した煙と砂埃が濃霧のように漂い、視界は充分でなかった。  ギアを入れ替えながら美由紀は告げた。「|M67手榴弾《アツプル》を持参ってことは、どうあってもわたしを新宿に行かせないつもりね」 「行き着く先は天国ですよ、岬美由紀」 「地獄のほうが好みなんだけど」  そういいながら美由紀は、唯一の逃げ道を敵にふさがれたことを悟った。セダンは環状線に昇るためのスロープを占拠し停車している。  ちらと上方を見た。  ここでは、高架線の高さはそれほどでもない。地上からわずか三メートルというところだ。ならば、可能性はあるかもしれない。  その思いつきが、まともな神経によって発せられたものかどうか疑っている暇もなかった。美由紀はすぐさまアクセルを踏んでガヤルドをセダンに突進させていった。  男がまた手榴弾を投げてきた。  絶妙なコントロールだ、ガヤルドの前方で爆発を起こし、停車を試みようとしている。  だが、美由紀のとった行動は回避ではなかった。  地上に転がった手榴弾の上に、あえてガヤルドを滑りこませ、停車させた。  一瞬ののち、足もとですさまじい爆発音が轟《とどろ》き、身体が浮きあがった。  クルマごと爆風に飛ばされるというのは、常識で考えられるような事態ではなかった。千四百三十キログラム、このサイズのクルマとしては軽量の部類に入るガヤルドの車体は、横方向に回転しながら宙に舞った。  空中で美由紀は運転席の床を踏みしめ、抜けていないことを確認した。M67は硬質鉄線が飛び散って殺傷力を高める仕組みになっているが、それは人間に直接投げることを想定してのことだ、これだけ厚い鉄板を撃ちぬく効果はない。  いかに戦場でのドライバーとしての経験が豊富であっても、爆発で車体を垂直方向に飛ばせることには思いが及ばないに違いない。しかし、美由紀はパイロットだった。敵ミサイルが近接信管により機体周辺で爆発したときの爆風の影響、それを逆に利用して上下左右への移動力に変える直感的な操縦は身についていた。  いまもまさしく、その通りのことを地上で実践したにすぎなかった。中心よりもわずかに左舷《さげん》にずらした位置の下で爆発を発生させ、車体は右舷上方へと飛ばした。  激しく回転しながら、宙に舞ったガヤルドの車体が高架線に横から飛びこんでいく。  美由紀は強烈なGと嘔吐《おうと》感に堪えながら、着地の衝撃に備えた。  爆発よりもさらに強烈な縦揺れが襲い、背骨に激痛が走る。だが、あきらかに路面に接地したとわかった。  顔をあげたとき、前方には高架線の上、環状七号線の道路が伸びていた。  後方ではタクシーが急停車したのがミラーに映っている。  突如出現したガヤルドに、運転手が目をぱちくりさせていた。あまりの事態に、クラクションを鳴らすことさえない。  美由紀は、割りこみをしたときと同様にハザードランプを数回点灯させて、後続のクルマに感謝をつたえると、流れに乗ってガヤルドを走らせた。  エンジンのベアリングが損傷したのか、擦《こす》れるような音が聞こえるが、走行には支障なさそうだった。  当然ながら、後方にも追っ手のセダンはない。 「……お見事」男の声がスピーカーから聞こえてきた。「そんな手があるとは、予測もつきませんでした」 「歴史を作るとか言ってて、これぐらいのことすら予見できないの?」 「あなたは予測困難な不確定要素の塊ですよ、岬美由紀。気をつけることですね。あなたが歴史を狂わすことを、われわれは是としない」  通話は切れた。  ツー、ツーという音だけが車内に響く。  ステアリングを切りながら、美由紀はハンズフリーをオフにした。  わたしが歴史を狂わす。  どういう意味だ。わたしが京城麗香なる女性と会うことで、どのような影響が生じるというのだろう。 [#改ページ]   奇跡  今朝もまた、ハローワークに来てしまった。  幸太郎はそのエントランスを前にして、困惑を覚えて立ちどまった。俺はなんのために、ここに来たのだろう。  きのう、就職の斡旋《あつせん》については人材的に問題ありとみなされて、臨床心理士の窓口にまわされたばかりだ。そこでも一笑に付された。実際、どんな仕事をやりたいと思っているのか、この先どう生きるつもりなのか、自分でもいまひとつわかっていない。  にもかかわらず、ハローワークに足しげく通う自分がいる。  いや、目的はほかにある。  きのうのことを思いだすのを故意に遅らせようとしたところで、なんの意味もない。  麗香という女と再会する約束はなかった。彼女は俺に、求人の告知をネットの掲示板に書きこませたまま、行方をくらましてしまった。連絡をとるすべは、何も伝えられていなかった。  それならもう二度と会うこともあるまい、そう思って忘れてしまえばいいはずだ。  けれども、そうもいかない。  まさか未練を感じているのか。美人だったからって、そこまで執着心を持つことがあるだろうか。  と、いきなり背中を強く叩《たた》く者がいた。  一瞬の間をおいて、痺《しび》れるような痛みが走る。幸太郎はのけぞった。「痛っ!」 「おはよう!」と女の声がした。  愕然《がくぜん》として振り返る。  そこにいたのは、きのうよりも派手な着こなしの麗香だった。髪もひときわ明るく染め直したようだ。 「なにボーッとしてんの?」麗香はどこか意地の悪そうな笑みを浮かべた。「しまりのない顔しちゃってさ。いかにも腑抜《ふぬ》けって感じ」 「おい。朝から酷《ひど》いな。だいたい、どこで待ち合わせるかの約束もなしに……」 「はぁ? 失業者は職探しにここに来るに決まってんじゃん。あなた、まだうちの正社員じゃないんだしさ。雇うか雇わないかは、社長であるわたしが決めんの」 「……あのさ。会社ごっこもいいんだけどさ。僕も人のこといえないが、もう少し現実に生きたほうが……」 「なによ、ごっこって」言うが早いか、麗香はハンドバッグから素早く書類を取りだした。「じゃーん。これなにかわかる?」 「な……。ええ!? これって……」 「そ。登記簿の写し。株式会社レイカ、めでたく法人設立と相成りました!」 「そんな。嘘だろ。きのうのきょうで、出来るわけが……」  麗香は悪戯《いたずら》っぽく笑った。「まあね、ふつう一週間から十日はかかるっていうけどさ。役人なんて、うまく丸めこめばこんなものよ」  いったいどんなふうに丸めこんだというのだ。というより、それをごく当たり前の手続きのように考えている麗香という女は、この世の善悪をどんなふうに区別しているのだろう。 「さあ」麗香は幸太郎の腕をつかんだ。「行くよ。早く」 「待てよ。行くって、どこに?」 「決まってんじゃん。会社」 「もう事務所を借りたのかい?」 「当然でしょ。法人の登記をしたってことは、ちゃんと事務所も押さえて会社の住所も定まってるってこと。ここからそんなに遠くないしさ。急いでよ。やる気ないなら雇わないわよ」 「あ、ああ……」  手を振りほどこうとすればできたが、到底そんな気にはなれなかった。  たった一日で会社を用立ててしまった女。その女の思いつきから立ち会った身としては、成り行きが気になって仕方がない。こんな行動力と実践力を持った失業者は稀《まれ》に違いないはずだ。  ハローワークから離れて、職安通りを大久保方面に向かって歩く。さすがに家賃の高い新宿近辺の物件を借りたわけではなさそうだった。  JRのガード下に近づいたとき、聞きなれないエンジンの重低音が轟《とどろ》いた。  振りかえると、オレンジいろのランボルギーニ・ガヤルドが、ハローワークの駐車場に乗りいれていくのが見えた。  あんなクルマでハローワークに……。むろん失業者ではないだろう。職員にもそこまでリッチな人がいるとは思えない。誰だろう。  麗香がぐいと手を引いた。「ほら。とっとと歩く」 「わかったよ。そう急《せ》かすな」幸太郎はぼやきながら、歩を進めた。  まったく。きのうからきょうにかけて、目に焼きつくのは妙な光景ばかりだ。 [#改ページ]   パワーハラスメント  麗香に連れられて幸太郎が足を踏みいれたのは、大久保駅と新大久保駅のほぼ中間にある五階建ての雑居ビルだった。  その三階、外観の印象よりはずっと広いワンフロア。薄汚れてはいるが、改装したのはごく最近のようだ。床のフローリングは光沢を放っているし、壁紙も新しい。 「どう? ここ」麗香は軽快なステップで小躍りしながらいった。「いかにも風変わりで、事務所っぽくないでしょ。わたしが目指す斬新《ざんしん》な企業の拠点には、もってこいって感じ」 「斬新といえば斬新だけどさ……」幸太郎は戸惑いがちに、床を靴のつま先で叩いた。「ずいぶん堅い床だな。コンクリでも打ってあるのかな?」 「ダンススタジオとして改装したんだけど、さっぱり流行《はや》らなくて半年で潰《つぶ》れたんだって。おかげで防音も完備、カラオケとかにも最適。キッチンもバスもあるし、なんならここで暮らせるね」  埃《ほこり》っぽい倉庫同然のこの部屋をそこまで喜べるとは、オーナーもさぞ感激しているだろう。 「ここ、幾らだったんだ?」と幸太郎はきいた。 「幾らって? いまのところ|〇《ゼロ》円」 「〇円? でも契約は交わしたんだろ? 敷金とか、礼金とかは……」 「そんなのまだよ。ずっと借り手のつかない部屋だったから、わたしもお試し期間ありって条件で検討してあげるっていったの。だから最初の一週間は無料《ただ》」 「二週めからは金が派生するわけだろ?」 「そのころにはなんらかの事業収入があるでしょ。会社も軌道に乗りかけてるころだろうし」 「あのう……。頭だいじょうぶか? この室内を見てみなよ」 「なによ」 「机も椅子もない。電話もファックスもパソコンもない。それなりの事務所としての体裁を整えるのにも、時間もかかるし金もかかる。一週間で軌道に乗るなんて……」  麗香は苦々しい顔になった。「ったく。幸太郎。失業者が脳汁を最後の一滴まで絞りだしてみたところで、発想なんてそのていどってことね。それを肝に銘じておいたら?」 「……なにか思い違いをしてるってのか、俺が?」 「ええ。とんでもない勘違いね。一週間で芽の出ない会社なんて、いくらやってみたところで同じ。石の上にも三年とかほざく人とかいるけど、たいてい負け犬の遠吠《とおぼ》えよね。継続は力なりとか言って、万年ヒラの身分をごまかそうとするなんて、ほんと出世できない輩《やから》の典型的な物言いって感じ。スーツ着て、満員電車に揺られて、会社でコピーとって書類をどうにかするのがそんなに大変かしらね。何年つづけたって雑用係は雑用係。人間の屑《くず》。石の上なんてね、座ったら痛いじゃん。だからせいぜい三時間よ、三時間。石の上にも三時間」  防音が施されていてよかった。こんな声を漏れ聞いたら、世のサラリーマンのほとんどは麗香に殺意を燃やすことだろう。  幸太郎はきいた。「きみは三時間で利益をだせるとでもいうのか?」  すると、麗香はふいに真顔になって告げた。「だから経費をかけちゃいけないの。出てくお金を最小限に留《とど》めておけば、最初から黒字にできるわけじゃん。机や電話やパソコンなんて、必須じゃないでしょ? そんなものそろえて、会社ができましたって自分を納得させて自己満足。けどさ、実態は事務用品が並んでるだけのことよ。備品はそれなりに利益が膨らんできてから購入すりゃいいの」 「まあ……そうだけどさ。でも会社というからには……」 「何? 会社っていうからには、立派なオフィスが必要? それって敗北の人生の幕開けじゃん。来客があるなら、近くのホテルのラウンジで会えばいいでしょ。日本人って、とにかく見栄えのする豪華なパッケージを先に作りたがるんだよね。国の総力挙げて馬鹿でっかい戦艦大和一隻だけ作って勝てる気になったりとか、文庫本と同じ内容なのにハードカバーで高く売るとか、ソフトが出てもいないのに次世代DVDプレイヤーやらゲーム機やらの発売を騒いだりとか、気持ち悪い布カバーで家財道具一式なんでもくるみたがったりとか。大事なのはハードよりソフト、つまり中身でしょ。顧客に見せなきゃならない部分でどうしても金のかかることはあっても、事務所のなかなんて社員しか見ないところじゃん。ここには知恵というソフトウェアさえあればいいの。ハードウェアは二の次。わかった?」 「……けど、実務をするにはさ、いちおう椅子が……」  麗香は床に座りこんだ。「日本人でしょ、床で生活するのは慣れてるはずよ。こうして、広々とした無の空間で心を落ち着けて座ってると、ほら、なんでも可能になってくるって気がしない?」  まるで寺だ。  しかし、麗香に節約という発想があるのは意外だった。彼女がまくしたてた社会分析も、言葉づかいは悪いがそれなりに鋭い視点を持っていると感じられた。  いや、感心するなどもってのほかだ。麗香はひたすらに衝動にまかせて行動しているだけだ。奇行に見えてまともな考えが裏にあるのではと期待するのは、愚の骨頂というものだ。  そのとき、コンコンとドアをノックする音がした。 「あん?」麗香は立ちあがろうとしなかった。「誰よ。幸太郎、ちょっと見てきて」  ほとんど使用人扱いだった。幸太郎はため息をつきながら戸口に向かった。  扉を開けると、廊下にひとりの女が立っていた。  一見して、変わった雰囲気の女だった。年齢はまだ若く、二十代前半らしい。痩《や》せていて、ひきしまった身体つきをしている。黒髪はストレートに長く伸ばし、顔はまだ幼かった。  微笑を浮かべたその顔、東洋人でいながら、どこか日本人とは違う趣きだ。雰囲気は歌手のボアに似ているかもしれない。  すると、女がたどたどしい口調でいった。「初めまして。吉永沙織《よしながさおり》といいます」  幸太郎は呆気《あつけ》にとられた。舌足らずに聞こえるその言葉は、訛《なま》りだとわかる。  本当に、ボアと同じような言葉の響きだ。韓国人だろうか。  そう思ったとき、いきなり幸太郎は横方向に突き飛ばされた。  麗香が沙織に満面の笑みで詰め寄った。「ようこそ! 株式会社レイカへ。早かったね! わたしたちもいま来たところなの」 「は、はあ」沙織も麗香のテンションの高さに面食らったようすだった。「そうですか。それはどうも……」  幸太郎は麗香に聞いた。「知り合いかよ?」 「まさか。いま初めて会ったの。きのうの晩、社員急募の掲示板に書きこみしてくれたんじゃん。きょう採用の面接するから来てって、わたしも返事を書きこんだの。あなた、把握してなかったの?」  無茶をいう。俺がネット環境にいたのは漫画喫茶にいたあいだだけだ。  沙織は笑顔で幸太郎に会釈した。「よろしく」  これまた美形に微笑まれるのは悪い気はしない。だが、やはり気になることがある。  幸太郎は麗香の手を引いた。「ちょっと来てくれ」 「なによ。堂々と話せば?」 「馬鹿いえ」幸太郎は麗香に小声で告げた。「胡散《うさん》臭いと思わないか。あのボアそっくりの訛りで、吉永沙織だなんて。そういえば吉永|小百合《さゆり》と一字違いじゃないか」 「それがどうかした? 社員急募にすかさず反応するなんて、やましいところがある身の上に決まってんじゃん」 「不法就労者だったらどうするんだ。たぶん韓国系だと思うけど、北朝鮮からの密入国者だったりしたら……」 「ありうるわね。大久保|界隈《かいわい》に潜むのは賢明な手よね。手助けしてくれる人もたくさんいるだろうし」 「おい……」 「訳ありなら黙っていろんな仕事をこなしてくれるでしょ。賃金も安く済むだろうし、一石二鳥」 「そうはいっても、社員として電話を受けたりしたら、あの訛りはどう考えても不自然だぞ。いくらなんでも吉永さんなんて日本人名は……」 「それはそうね」麗香は沙織を見据えていった。「ねえ、キムチ食ってるのに吉永沙織はないんじゃん? 本名聞いてもしょうがないから、ポアって呼ばせてもらうけど、どう?」  幸太郎は寒気を覚えた。なんという思慮のない言い方だろう。沙織を名乗る韓国人女性は、きっと顔を真っ赤にして怒りだすか、泣きだすに違いない。  ところが、沙織の反応は、幸太郎の予測とは正反対だった。 「はい」とポアは明るく笑った。「社長に命名していただけるなんて、感激です。今後ともよろしくお願いします」  頭をハンマーで殴られたような衝撃とは、まさしくこのことだ。  幸太郎は言葉を失って立ち尽くした。麗香の提案を受けいれるなんて。それも明るく笑いながら。  いや、顔で笑って心で泣いてという心境ではないのか。きっとそうだ。 「やめろよ、ポアだなんて」幸太郎は麗香にいった。「きみは、沙織さんの気持ちがわかってるのか。きみが雇い主になる以上、彼女は嫌と思ってもすなおにそれを表すことができない。これはパワーハラスメントだろ」 「はあ? なにいってんの。ビートたけしはダンカンに当初、ふんころがしって名づけたのよ。それと比べてポアって名前のどこが問題なのよ。ねえ?」  ポアもにっこりと笑った。「可愛くて、いい名前だと思います」  幸太郎は絶句せざるをえなかった。ありえない。こんな会話が成り立つなんて。  少なくとも、この言葉が日本の犯罪史上どんな意味を持っていたのかぐらい、調べてから決めてほしい。  だが、麗香はもうその命名について再検討する意志はなさそうだった。「じゃあ、ポア。悪いんだけどさ、ここ掃除してくれる? それと、会社にふさわしい物がいくつか必要なんだけど。机とか、椅子とか、電話とか。大久保に住んでる韓国人を片っ端からあたって、不用品を引き取ってきてくれないかな」 「ええ」ポアは屈託のない笑いとともにうなずいた。「わかりました。喜んで」 「それと」麗香は幸太郎を見た。「あなた、クルマの運転ってできる?」 「まあ、いちおう、免許は持ってるけど……」 「そりゃよかった、少しは使えそうね。会社といえば社用車。事務所のなかは見せてまわるわけじゃないけど、社用車は人目につくものでしょ。しっかり社風を表す車種でないとね。それも高級車でないと。いまからクルマを探しに行くから、一緒に来て」 「クルマ? なあ、いったいなんの会社なんだ。そろそろ教えてくれないか」 「あなたの頭で理解しろっていうほうが無理な話よ。そうね、この世のあらゆる事業を超越した最高に魅力的な会社とでも言っておくわ」  答えになってない。ますます不安は募るばかりだ。  そんな幸太郎の腕をつかみ、麗香は戸口に向かった。「ポア、あとはまかせたわよ。戻ってくるころには、しっかり会社になってることを期待してるから」 「はい」ポアは深々と頭をさげた。「お気をつけて行ってらっしゃいませ、社長」  幸太郎は廊下に連れだされながら、脳天がくらくらするのを感じていた。  異常だ。さっぱり理解できない。 [#改ページ]   アーティスト  麗香のクルマ探しは、会社設立以上に理解不能な行動の連続だった。  幸太郎は炎天下のなか、彼女に歩調をあわせてついていくのが精一杯だった。  まず、都営地下鉄で向かった先は江戸川区にあるベンツの中古車専門店だった。 「やっぱ高級車っていえばベンツでしょ、ベンツ」と麗香は電車の車内でも甲高い声で連呼していた。  到着すると、麗香はまっすぐに店長のもとに向かい、事故車があったら買い取りたい、と告げた。  店長は、そんなものは置いていないと切り返したが、麗香は表情ひとつ変えずにいった。  パーツ取りのために裏にほったらかしてあるSクラスがあるじゃん。側面から衝突されてボコボコになってるやつ。ベンツがあんなに凹《へこ》むなんて、よっぽど大きな事故だよねぇ。ナンバー外してないから、まだクルマとして登録してあるんでしょ? 主だったパーツはほとんど引っ剥《ぱ》がしたみたいだし、わたしに所有権移せば引き取ってあげるけど?  正気かよ、と幸太郎は思った。  自走不可の車両、それもドアからワイパーブレードまで外されてしまったクルマだ、修理しようにも部品がなくてはどうにもならない。というより、走らせるためには莫大《ばくだい》な金がかかる。  店長の顔はひきつっていたが、たとえ無料で譲っても、処分費を払わなくて済むぶんだけ得になると踏んだらしい、名義変更と移転登録に同意した。  あとでレッカー車で取りに来るから、そのままにしといて。麗香はそういって店をでた。  無料とはいえ、ポンコツを手にいれて何になるのだろう。そんな幸太郎の素朴な疑問に答える素振りさえ見せず、麗香は今度はJRで千葉の幕張駅に向かうといいだした。  幕張メッセに着いたのは午後一時半。ちょうどモーターショーが開催されていて、大勢の人々で賑《にぎ》わっていた。  麗香はなんと、関係者用の通行証を持っていた。  それをエントランスで提示し、麗香はいった。「株式会社レイカ社長の京城です。こっちは部下の鳥沢幸太郎」  わざわざフルネームで紹介しなくてもいいだろうに。  受付嬢はこちらの業種をたずねることもなく、にっこりと笑った。ようこそいらっしゃいませ、そう告げた。  幸太郎は罪悪感とともに、会場に足を踏みいれた。  いくつものホールを借り切って催されている大規模な自動車メーカー各社の発表会、モーターショー。  そこでも麗香が目をつけたのは、メルセデス・ベンツの展示ブースだった。  黒山の人だかりのなか、光沢を放つ高級車がずらりと並んでいる。  どのクルマも、乗ってみることは可能だった。むろん、走らせることはできないが。  Sクラスは、ブースのいちばん目立つところに飾ってあった。いかにも大企業の社長が乗りそうなハイグレードなセダン。人気も一番のようだった。  なぜか麗香は、ディーラーの人間と話していた。すごいクルマですねぇー。どんなキー使うんですか?  しばしお待ちを、と言って、相手はカウンターに引きさがった。キーを持ってふたたび麗香に近づく。こちらでございます。  それはいわゆるスマートキーで、鍵《かぎ》の先端部は金属の突起ではなく、プラスチック製のケースにすべてがおさまっている。  鍵穴に差しこんだら内部から赤外線が照射され、イモビライザーで認証がおこなわれる仕組みである……。ディーラーの男はそのように説明していた。 「へえー。そうなんですか。エンブレムがついてて、素敵なキーですよねぇ」麗香はそういって、キーを相手に返した。  しばらく麗香はメルセデスのブース内をぶらぶらと歩きまわっていたが、またSクラスに戻ってくると、幸太郎にいった。「運転席に乗って」 「ああ……。いいけど」もう逆らっても始まらない。言われるままにすることにした。  ドアを開けて運転席に乗りこむ。  きめ細やかな造りの、リビングルームのような車内。革張りのシートも大きく、高級感|溢《あふ》れるものだった。  後部ドアが開いて、麗香が乗りこんだ。  後ろの席に乗るとは。俺は完全に運転手扱いか。  すると、麗香がなにかを放り投げてきた。  幸太郎はその物体に目を落とし、ぎょっとした。スマートキーだ。 「エンジンかけてみて」と麗香があっさりといった。 「ちょ、ちょっと。これはいったい……」 「いいから。それ、さっきの中古屋で買った事故車のキー。鍵穴に入れて、ひねってほしいだけ。それぐらいのこともできないの?」 「……イモビライザーついているから、エンジンがかかったりはしないよ」  そういいながらも、幸太郎は指示に従ってキーを挿し、ひねった。  ほら。と言いながら麗香を振り返る。幸太郎はそのつもりだった。  だが、そうはならなかった。  Sクラスは重低音を響かせながらエンジンを作動させ、メーターパネルのあらゆる表示に明かりが入った。 「な……なんだよ。こりゃいったい……」  当然、周囲の見物客たちは驚きのいろを浮かべている。  彼らが身を退《ひ》かせたと同時に、ディーラーの男たちや警備員らが血相を変えて駆け寄ってきた。  麗香は落ち着き払った声で告げてきた。「中央コンソール、あなたの左手の下あたり。南京錠の絵が描いてあるボタンがあるでしょ。それを押して」 「京城さん。これはどういう……」 「さっさと押して!」  びくつきながら目を落とすと、錠前の絵はすぐに見つかった。  そのボタンを押す。集中ロックだった。四枚のドアすべてが重苦しい音とともに施錠された。  ディーラー側の連中がドアを開けようと必死になっているが、不可能だった。  ひとりがスマートキーをこちらに向けてボタンを押している。リモコンで開錠しようというのだろう。  だが、無反応だった。ドアは固く閉ざされている。  まさか、そんな……。  幸太郎は背筋の凍る思いだった。  麗香は初めからそのつもりだったのか。事故車の車体などに用はなく、ただスマートキーを入手したいだけだったのだ。  外見上はまったく変わらないキーがひとつあれば、すりかえは容易に可能になる。 「幸太郎」麗香がぼそりといった。「サイドブレーキの解除は、右手のあたりにあるPのボタンを押すだけでいいから。それと、ウィンカーのレバーはステアリングの左についてる。右はチェンジレバー代わりのシフトレバーだから気をつけて」 「それどういうことだよ!? このまま走らせろとでも?」 「ほかに何があるの」 「冗談じゃない! 降りるよ。泥棒なんてまっぴらだ」 「あなた、ここに入るときに本名、名乗っちゃってるじゃん。それもわたしの部下として。いまさら言い逃れは聞かないんじゃない?」  名乗ってなんかいない。麗香が勝手に紹介しただけだろう。  心拍数があがる。心臓の鼓動は激しさを増し、いまにも張り裂けてしまいそうだ。  クルマの周りで見物客らが、携帯電話のカメラをこちらに向けている。フラッシュがひっきりなしに閃《ひらめ》く。  幸太郎は顔を隠そうとしたが、もう遅かった。何枚かは確実に撮られてしまったにちがいない。  さらに、人垣をかきわけて警備員たちも続々と押し寄せていた。その手には、窓ガラスを割るためのブレイクハンマーが握られている。  麗香は後部座席にくつろいだ姿勢でおさまり、低い声でいった。「幸太郎。一生負け犬で終わる? それとも人生を変えてみる?」  身体が震える。絶望、その二文字が脳裏《のうり》をよぎった。  まさしくここは崖《がけ》っぷちにほかならない。崩れ落ちそうな断崖《だんがい》絶壁の縁で斜めに傾いたクルマのなか。 「じ、自分で運転すればいいだろ」と幸太郎は麗香にいった。 「わたし、免許持ってないの。教習所にはいちど通ったんだけど、頭にきて辞めちゃったし。だから運転の仕方、わかんない」  わからないって……。  だが、議論している暇などなかった。追い詰められている。のるかそるか、選択肢はふたつしかない。  意を決した。腹をきめた、そうなってしまった。  Pを押してサイドブレーキを解除し、シフトレバーをDレンジに入れて、アクセルを踏みこんだ。  六千ccのSクラスにしては軽自動車のような滑りだしだが、直後にそれは電子制御でトルクが自制してあるだけだとわかった。  人々が飛びのいた空間に、クルマは猛スピードで飛びこんでいった。  横滑りは起きない。ステアリングを操る者の意志に従い、完璧《かんぺき》な運転が可能だ。  素晴らしい高級車だ。幸太郎はいつしか涙を流していた。これが最初で最後の運転になるだろう。メルセデス・ベンツ。憧《あこが》れのクルマ……。  涙に揺らいだ視界では、クルマを走らせるのは危険きわまりなかった。  通路を飛ばしていくと、通行している客らが左右に飛んで避ける。  レクサスにぶつかりそうになった。コンパニオンの女性が悲鳴をあげて逃げ惑う。  急ブレーキを踏んだが、オブジェをなぎ倒し、ブースの立て看板を破壊してしまった。 「左へ折れて」麗香の声はあくまで冷静だった。「車両の出入りが可能な通用口が開いてるから」  もはや俺は麗香の命令に従う忠実な僕《しもべ》とならざるをえない。  幸太郎は泣きながらステアリングを切った。  前方に通用口が見える。クラクションを鳴らして客をどけ、アクセルを踏みこんだ。  夏の午後の強烈な陽射しの下にでた。そこは幕張メッセの敷地内の私道だった。まっすぐに向かえば駐車場、そして外にでることができる。  ミラーに目をやると、警備員たちが全力疾走してクルマを追いかけてくるのがわかる。そのさまはまさしくマラソンのようだった。  麗香はいきなり、後部座席の窓を開けると、身を乗りだすようにしてクルマの後方を振りかえった。 「どうもありがとーう!」麗香は、コンサートを終えて立ち去るアーティストのように手を振り、大声で叫んだ。「みんなありがとう! 最後まで応援してくれて、麗香は幸せです!」  思わずひきつった笑いが顔に浮かぶ。俺はおかしくなっている。頭のおかしな女のせいで、その影響をもろに被ってしまった。  俺はもう窃盗犯だ。引き返す道などどこにもない……。 [#改ページ]   乗り換え  美由紀が東関東自動車道にガヤルドを飛ばし、幕張メッセに到着したころには、すでに午後三時をまわっていた。  広大なメッセ駐車場は警察車両と、テレビ中継車など報道関係の車両で埋め尽くされている。  ゲートに乗りいれようとしたとき、制服警官が駆けてきた。  ウィンドウをさげると、警官が告げてきた。「きょうはモーターショー、中止ですよ」  こんなクルマでは、客だと思われても仕方がない。  美由紀はいった。「すみません。臨床心理士の岬美由紀です。千葉県警の福原《ふくはら》警部補はどちらに?」 「あ、岬先生ですか。失礼しました。警部補は現場におられます。このまま駐車場を突っ切って、展示ホールの五番の入り口です。クルマでお入りいただけますよ」 「どうもありがとう」美由紀はガヤルドを発進させた。  そこかしこでテレビのクルーが現場からの実況中継をするなか、美由紀は関係者専用のゲートから展示ホール棟への私道に入った。体育館をいくつも縦列につなげたような巨大なホールの五番入り口は、たしかに車両が楽に乗り入れられるだけの間口が開いていた。  すなわち、京城麗香はここを突破し、逃走したということか。  ガヤルドを徐行させながらホール内に入っていくと、内部はまだモーターショーの飾りつけが施されたままだった。ただし、見物客はいない。代わりに大勢の警官が繰りだして、現場の遺留品を捜索したり、写真を撮ったりしている。  停車して、外に降り立つ。  蒸し暑かった。空調は停まっているらしい。あちこちに警察が持ちこんだらしい扇風機が置いてあるが、さして役立ってはいないようだった。  と、小走りに駆け寄ってきた中年のスーツ姿の男がいた。  男は硬い顔で会釈した。「岬先生ですね? 警部補の福原|昭義《あきよし》です。警視庁の蒲生《がもう》警部補とは、旧知の間柄でして。お噂はかねがねうかがっております」 「いい噂ではないんでしょうね」 「そうでもありませんよ」福原はしばしガヤルドを眺めた。「これ、東京ミッドタウンの敷地を暴走したガヤルドですか? たしかにフロントバンパーが破損してますね」  やはり、いい噂など聞いてはいないようだ。  美由紀は首を横に振った。「あれは大破しちゃったから買いなおしたんです。この傷はついさっき……」 「ああ。警視庁から連絡が入ってます。環七の高架線下で襲撃を受けたそうですな。手榴弾《しゆりゆうだん》が用いられたとか。そちらのほうは、犯人に心当たりは?」  美由紀は困惑した。  メフィスト・コンサルティング特殊事業課のしわざと告げたところで、彼らの捜査力の及ぶ範疇《はんちゆう》ではない。へたに手をだしたら、なんらかの工作を受けて捜査本部そのものが消滅されてしまうだろう。 「警視庁のほうでも話したんですが、まだなにもわかっていないことで……。京城麗香に会いに行こうとしたがゆえに襲撃されたことはたしかです」 「ふうん……。いったい何者なんでしょうな、あの女は。前科の記録もないし、住所不定で無職という以外、いまのところ判明している事実もない」 「こんなところでクルマ泥棒を働くなんてね……。大胆にもほどがある犯行ですね。現場はどのあたりですか?」 「すぐそこですよ、ご案内しましょう」福原は歩きだした。「大規模なテロ計画でも進行してるんでしょうか。ここで怪我人が出なかっただけでもさいわいです」 「破壊されたブースは、メルセデスだけじゃないみたいですね」 「ええ、そこのレクサスも展示物に突っこまれて被害甚大ですよ。もっとも、ディーラーは別の意味でショックを受けてるみたいです」 「なんです?」 「犯人はこちらから歩いてきたのに、レクサスのLSを素通りしてベンツのSを標的に選んだわけで……。スルーされた事実は疑いようがないということで」 「被害にあわなくてよかったのに……」 「モーターショーで盗まれれば世界のニュースになるんで、そのほうがいいみたいですよ。他のメーカーのやっかみも相当なものでしてね。ヤラセじゃないのかと勘ぐったり、うちもやろうかなんて言いだすメーカーもある始末らしくて」 「人気を競う場だからかな。しょうがないですね」 「まったくです。ただ、高級車だけに目立つクルマですからね。まだ緊急配備網に引っかかってませんが、そう遠くへは行けんでしょう。あ、ここです」  メルセデスのブースの一角、たしかにSクラスの性能諸元を記載した案内板だけが残され、その向こうにはクルマ一台ぶんのスペースががら空きになっている。  福原は長テーブルに歩み寄った。扇風機の向こうに置いてある小物入れから、スマートキーをつまみだし、差しだしてきた。 「すりかえられたキーです。女はあらかじめ用意していたようです」 「ふうん」美由紀はそれを受けとった。「クルマにはそれなりに詳しかったわけね」 「犯行の一部始終を防犯カメラがとらえてました。見ますか?」 「ええ、ぜひ」  そういって美由紀は、扇風機の回転の隙間からキーを投げこみ、小物入れに戻した。  ぎょっとした顔で福原がいった。「いま、何をしたんです?」 「え? ……ああ、すみません。いつものくせで……」 「扇風機にキーをぶつけようとしたんですか?」 「いいえ。小物入れに戻そうとしただけです」 「回転する羽に当たらない自信があったとでも?」  美由紀は困惑して口をつぐんだ。  元イーグルドライバーの動体視力からすれば、これぐらいはなんら問題ない。ヘリコプターのメインローターの回転にも隙があるように見える。プロペラに当てないようにボールを投げあげる遊びは、パイロットのあいだで盛んだった。  だが、わたしにとっての常識は彼らにとって非常識きわまりないことだろう。 「申し訳ありません」美由紀は詫《わ》びた。「たいせつな証拠品を粗末に扱って……」 「いえ、指紋などはもう調べましたからいいんですけどね。ただし、今後は気をつけてくださいよ」 「はい……」  メフィスト・コンサルティングの陰がちらついているせいで、普通の女らしく振る舞うことを忘れがちだ。注意しておかないと、人をどんどん遠ざけてしまう。  テーブル上のノートパソコンのエンターキーを福原が叩《たた》くと、モニター画面にウィンドウが開いた。  すでに映像はデータ化され、インストールされているらしい。映しだされたのはモーターショーで賑《にぎ》わう会場だった。  派手なスーツ姿の若い女、それが京城麗香らしい。ファッションモデルのような存在感を放つ女だった。立ち居振る舞いも堂々としている。  顎《あご》があがったとき、顔ははっきりと見えた。  目鼻立ちの整った美人顔だが、どちらかといえば美しいというよりは可愛いと表現される部類かもしれない。二十七歳ということだが、年齢より若く見える。  麗香は青年を連れている。  青年が運転席に乗りこみ、麗香は後部座席に乗った。  エンジンがかかったらしく、周囲があわてているのがわかる。  警備員が駆け寄ろうとしたとき、Sクラスは滑るように走りだした。人々が呆然《ぼうぜん》と見送るなか、クルマは遠ざかっていく。  福原がきいてきた。「この女に見覚えは?」 「さあ。会ったことがあるような気もするけど……。いえ、やっぱり記憶にはないですね」 「スマートキーを用意してきて、すり替えたようです。計画的犯行ですな」  美由紀はパソコンに手を伸ばし、マウスを操作して映像を最初から再生しなおした。  クルマを盗み去る鮮やかな手口。  だが、メフィスト・コンサルティングのメンバーとは思えなかった。メフィストは歴史に犯罪の記録が残るようなヘマはしでかさない。この女はむしろ注目を集めたがっているように見える。  それも、顔が輝いていた。瞳孔《どうこう》が開いているのもわかる。心の底から喜びを感じていて、それが表情にあらわれていた。  感情が顔にでることを抑えられない時点で、メフィストであるという線は消える。けれども、あの手榴弾で襲撃してきたメフィストのメンバーらしき男は、たしかにこの京城麗香とつながっている。 「警部補」と若い刑事が興奮ぎみに駆け寄ってきた。「京城麗香の盗んだSクラス、発見されました」 「なんだと!?」福原は身体を起こした。「どこにあった?」 「ここからそう遠くない場所です。高速の葛西《かさい》出口付近、光岡自動車の江戸川ショールームです」 「光岡自動車だと?」 「そこの従業員の話によりますと、京城麗香とみられる女性とその連れの男がSクラスで乗りつけたとのことです。で、客に納車しようとしていた新車を奪い、また逃走したと」 「別のクルマに乗り換えたってのか? それもディーラー販売の新車に? なぜだ?」 「従業員によれば、こっちのクルマのほうがいいじゃん、気に入った……と京城麗香が告げたそうで……Sクラスと交換したいと客に申し入れたとか。客が面食らっているうちに、さっさとその新車に乗りこみ、発進させてしまったそうです」 「……宣伝目的のヤラセじゃないのか?」 「いえ。発見されたSクラスは、まぎれもなくここから持ち去られた車両と確認されました」 「そうか。じゃ、Sクラスでは目立ちすぎると感じて、ありふれた国産車に乗り換えたわけだ。大胆そうに見えて、案外小心者かもしれんな、京城麗香は」 「それが……。そうでもないんです」と刑事は、手にしていたパンフレットをしめした。  クルマの写真を見た福原は、口をぽかんと開けた。 「これか?」と福原がきいた。 「はい。これです」  美由紀も写真を覗《のぞ》きこんだ。  それは、爬虫類《はちゆうるい》のような顔つきをしたフロント部分を持つ、きわめて個性的なクーペスタイルのスポーツカーだった。おそらく地球上の隅々まで探しても、ここまで際立ったフォルムのクルマはほかにあるまい。 「オロチね……」と美由紀はつぶやいた。「こんな人目につくものに乗り換えるなんて……」 「警察をなめやがって」福原は怒りのいろを漂わせていった。「これはわれわれに対する挑戦だ! すぐに捜査本部に連絡して、ナンバーをNシステムが感知するよう手配を……」  美由紀は黙って、そのクルマの不敵な半笑いのようなマスクを見つめていた。  まるで心理が読めない。あまりにも行き当たりばったりの犯行だ。  たった数時間で世界じゅうに犯罪者として顔を売った。なにを画策しているのだろう。そして……。  美由紀はパソコンのモニターに映った京城麗香の顔を見た。  この女はなぜ、これほどまでに喜びと興奮を感じているのだろう。 [#改ページ]   ドップラー効果  幸太郎にとって、麗香の命令に従わねばならない義理や義務などない。  それでも、窃盗の共犯となった現状では、彼女に逆らうことは賢明ではなかった。  いや、不可能といっても過言ではない。  麗香のだす指示は気まぐれなように見えて、実は的確そのものだった。警察の検問のない一般道路を巧みに選びだして都内まで逃げのびたことは、揺るぎない事実だ。  もっとも、犯行そのものが気まぐれ以外のなにものでもない、とも思えるのだが……。 「幸太郎」助手席で麗香がいった。「その渋谷駅ハチ公前の交差点、左折して」  言われるままにするしかない。しがない失業者である俺には、警察の動きなど読めないばかりか、いま次の瞬間にもどうしたらいいかさっぱりわからない。  実家の両親のもとには、警察から連絡が入っているだろうか。ふたりとも腰を抜かすに違いない。あるいは、もうとっくに指名手配されていて、テレビで顔写真と名前が公表されているかもしれない。  なぜこんなことになっちまったんだ。時間を戻せるものなら戻したい。いまこそそんな夢想に身をゆだねたい。  オロチのステアリングを切り、交差点を左に折れると、正面に109が見えている。  かつてはギャル系ファッション好きの女子高生たちのメッカ。いまは客層も幅広くなったらしいが、幸太郎は秋葉原以外には詳しくなかった。渋谷系のファッションブランドなどチェックの対象外だ。  その109の正面は、スクランブル交差点に面し、仮設のステージ上ではイベントが催されている。  司会者とアイドル歌手らしき出演者が談笑していて、道行く人々も足をとめて見入っていた。 「あれに突っこんで」と麗香がいった。 「なんだって? もう勘弁してくれよ。だいいち、突っこむってどうやって……」 「左のスロープから自動車一台ぐらいなら上がれるようになってる。ステージ上で停車して。あとはわたしがやる」 「頼むから、冷静な判断を下してくれよ。いまは少しでも遠くに逃げたほうが……」 「やらなきゃクルマの外に叩《たた》きだす! さっさと言われたとおりにして!」  幸太郎はびくつきながら、アクセルを踏みこんだ。  己の情けなさに嫌気がさす。けれども、逆らえない。独りでは逃走する自信もない。頼るべき存在とは到底思えないのに、麗香に依存せざるをえない自分がいる。  クラクションを鳴らすと、ステージ周辺の客たちがあわてたようすで逃げ惑った。  幸太郎はオロチをそこに突っこませていった。  歩道からスロープ、そしてステージに達しようとしたとき、司会者とアイドル歌手が悲鳴とともに飛び降りた。  マイクスタンドをなぎ倒して、オロチをステージ上に停車させる。  助手席の麗香がドアを開け放ち、外に降り立った。  幸太郎の全身を寒気が襲った。  窓の外、ステージの下には大勢の観衆がいる。  誰もが唖然《あぜん》、呆然《ぼうぜん》としていた。  無理もない。このオロチというあまりにも奇異な形状のクルマで強引に乗りつけ、女がひとり姿を現した。それも人目を惹《ひ》く美人だ。なにが起きるか、誰にも予測できないに違いない。  麗香は臆《おく》したようすもなく、マイクを拾いあげると、まるで歌手のようにステージから観客に向かって語りかけた。 「みなさん、こんにちは。わたしは株式会社レイカ社長の京城麗香です。弊社がお取り引きさせていただくのは、この世のあらゆる常識を超越したクライアントに限らせていただきます。その条件に当てはまっていれば、基本的にどんなご依頼に対しても相談に乗らせていただきますが、そこいらの凡百な会社でも対応可能なことだけは持ちかけてこないでください。弊社は特殊かつ特別な存在であることに疑いの余地はないので」  社長にはなくても、世間の人々には大ありだろう。  幸太郎は冷や汗をかいていた。  観衆の目は麗香と、オロチの運転席にいる幸太郎をかわるがわる見つめている。  これがどんなオチの待つアトラクションかと訝《いぶか》しがっているのだろう。  残念ながら、この状況にオチはない。あるのは混乱と不条理だけだ。  会社の所在地と電話番号を告げてから、麗香は気取った口調でいった。「それでは、最後にわたしから歌のプレゼントです。聴いてください。浜崎あゆみのバラード、『SEASONS』」  歌いだした……。しかもアカペラで。それも、どういう選曲なんだろう。ずいぶん古い曲だが……。  音程は外しておらず、声量もそれなりにある。麗香の歌はわりとじょうずではあった。  だが、観衆の反応は感動とは程遠かった。しだいに人々の顔には、奇怪なものを目にしたような嫌悪のいろが浮かびだした。  それでも麗香はいっこうに意に介したようすもなく、ひたすら気分よさそうに歌いあげている。  そうこうするうちに、サイレンの音が沸いていることに幸太郎は気づいた。  パトカーの音。しだいに大きくなっている。  幸太郎は焦ったが、クルマの外にでる勇気はなかった。足がすくんで動かないといったほうが正解かもしれない。  サイドウィンドウをわずかに開けて、幸太郎は呼びかけた。「京城さん。もう行かないと。警察が来る」  しかし、麗香の歌はサビに入っていた。聞く耳を持たないようすで、ひときわ声を張りあげて歌いつづける。  やがて、感極まったかのように声を詰まらせたかと思うと、観客に手を振った。「どうもありがとう。みんな、聴いてくれてありがとう。株式会社レイカ、これからもよろしく。京城麗香でした」  そういうと、麗香は引退コンサートのようにマイクをステージにそっと置き、なおも無反応の観衆に手を振りながら、オロチの助手席に戻ってきた。  乗りこんでドアを閉めると、麗香は指先で涙をぬぐった。  まじかよ、と幸太郎は絶句した。嘘泣きかと思っていたら、本当に目を泣き腫《は》らしているではないか。 「き、京城さん。あのう、できるだけ早くここを去るべきかと……」 「あわてないでよ」麗香は静かにいった。「サイレンの音はしばらくするとまた遠ざかったように聞こえる。ドップラー効果で距離が近く思えるだけ。まだ到着まで七分ある。バックしてスロープを下ったら、道玄坂をのぼって」  幸太郎は指示に従った。クラクションで後方の野次馬をどかし、クルマを後退させて路上に戻した。  ふたたび道路を走りだしながら、幸太郎は麗香の横顔をちらと見た。  妙にさびしそうな表情。遠くを見つめる、虚無に満ちた目。  さっきまでとは、あきらかに違う。なにが彼女に変化をもたらしたのだろう。 [#改ページ]   ポア  少しばかり繊細さをのぞかせたからといって、麗香の性格が変わったわけではなかった。  大久保の会社、というよりは麗香が独断でそう決めている場所に舞い戻ったころには、麗香はすっかり元どおりの図々しさを発揮していた。  ビルの階段を登りながら、麗香は満足したようにまくしたてた。「いやー、うまくいったね。このインパクト充分のクルマで、渋谷のパフォーマンス。かなり大勢の人たちの心に訴えかけたんじゃない? これならきっと、事務所には問い合わせが殺到するね。いや、もうクライアントが来ているかも」  いったいどんなクライアントを期待しているのか、さっぱり理解できない。  だが、事務所にはたしかに来客があった。麗香が望んでいたであろう客とはあきらかに異なっていたが。  屈強そうな中年の男は、事務所に戻った幸太郎と麗香を見たとたんに口を開いた。「警視庁、捜査三課の新藤《しんどう》。京城麗香さんですな。ご同行願います」  私服の刑事たちがわらわらと麗香の身柄を拘束しに群がる。  幸太郎のほうにも、ひとり近づいてきた。俺はひとりで充分と考えられているらしい。  警察の判断は的確だ。危険なのは麗香ひとりだ。俺のほうは人畜無害な存在にほかならない。 「ちょっと、何よこれ!?」麗香は怒りのいろを浮かべて怒鳴った。「ポア。なんでこんな奴ら上がらせておいたの? 警察なんか用はないっての!」  こうなることをまったく予測していなかったような言い草。あきれ果てた女だった。あれだけの騒ぎを起こして会社の所在地を伝えた結果、警察がやってくることは自明の理だろうに。 「来るんだ」と新藤がいった。幸太郎の担当らしき刑事に目を向けて告げる。「おまえはここに残れ。先にわれわれで京城麗香を連行する。応援が来たら、その青年と韓国人女性を本庁に連れていくんだ。わかったな?」 「はい」と刑事が応じた。  よほど凶暴な犯罪者とみなされていたのか、麗香の連行には十人近くが動員されていた。 「放してよ!」麗香は刑事たちに引きずられていきながらも、身をよじって抵抗をしめしていた。「触らないでって言ってるでしょ、ばーか。安月給の公務員のくせに、こんなときだけ役得とばかりに威張らないでよ。なにさ、不祥事だらけの薄汚れた組織のくせに。テレビで人情おまわりさんとか特集したって無駄だっての、わたしは騙《だま》されないから。国家の犬。犬畜生」  しかし、あくまで抵抗できるものではなかった。麗香は廊下に連れだされていき、その息巻く声もしだいに遠ざかっていった。  事務所には幸太郎のほか、刑事とポアだけが残された。  ところがこのとき、幸太郎はようやく事務所のなかの異変に気づいた。  事務用デスクが三つ、部屋の中央に集められている。それぞれにパソコンが据えられていた。壁ぎわには棚と、ファクシミリ、コピー機。どれも真新しかった。  いつの間にか、会社としての体裁が整っている。  驚きを感じながら、幸太郎はポアを見た。「こんな備品、どこで集めたんだい?」  ポアはにこりと笑った。「社長にいわれたとおり、知り合いのつてで……」 「まさか。どれもこれも新品じゃないか。パソコンのキーボードも、フィルムカバーが剥《は》がされていないし……」  刑事が顔をこわばらせた。「盗品か?」  と、ふいにポアが顔を堅くした。 「なんですって?」ポアが刑事にきいた。 「盗んだものかどうか、と聞いてるんだ」 「……失礼な刑事さんですね。なんの根拠もなくわたしを泥棒だとでも?」 「事情を聞こうとしているだけだ。黙っていたところで、やがてはあきらかになる。いまのうちに話しておいたほうが……」  だが、次の瞬間、ポアのとった行動は完全に予測不能なものだった。  ポアは刑事に向かって突進するや、跳躍して膝蹴《ひざげ》りで刑事の顎《あご》をしたたかに打った。  幸太郎は、自分が殴られたかのような衝撃を感じた。 「ポ、ポアさん……。なにをしてるんだ!?」  刑事は両手で顎をかばい、痛みに耐えている。  ふらつきながら、刑事はいった。「この女……公務執行妨害だぞ」  それでもポアは動じなかった。冷ややかな目で刑事を一瞥《いちべつ》すると、瞬時に片脚を振りあげた。  一方を軸足に、もう一方を鞭《むち》のように自在に振りまわし、ムエタイのような強烈かつ素早い蹴りを次々に放つ。刑事はめった打ちにされていた。  ポアの動作には寸分の隙もなく、幸太郎がテレビで観る格闘家の攻撃姿勢そのものだった。  目にもとまらぬ早業での連打、刑事はたちまち痣《あざ》だらけになって床に転がった。  瞬殺。  幸太郎は凍りついて立ちつくした。 「貴様……」刑事は唸《うな》りながら、スーツの下に隠していた拳銃《けんじゆう》を取りだした。  しかしポアは動じることもなく、刑事の首に腕を絡めて背後にまわりこみ、寝技に持ちこんだ。  きりきりと絞めあげられる首……。  なんという無慈悲な。幸太郎は悲鳴をあげて逃げだしたい衝動に駆られた。  やがて刑事は力尽き、ぐったりと身体を弛緩《しかん》させた。  ポアはそんな刑事を床に放りだして、立ちあがった。  幸太郎は恐怖に震えながら、なんとか声を絞りだした。「ポアさん。お、俺はなにも見てません。なにも目撃してない。ここで起きたことは、俺がなんら関知しないことであり……」 「心配はいりません」ポアは不敵な薄ら笑いを浮かべた。「殺したわけじゃないんです。ただ脳への血液循環をさまたげることによって意識喪失に導いただけですから。一般的な用語でいえば、失神かな」 「失神って……。きみは何者なんだ? こんなことしたら、麗香ばかりじゃなくきみの身まで危ういことに……」 「案ずることはないの。麗香さんはすぐここに戻ってくる。警視庁に連行されることはございません」 「なぜだ……? 現にああして、大勢の刑事たちに連れられていったじゃないか」 「あと二分少々で、刑事らは麗香さんに構ってなどいられなくなるんです」 「こりゃまた、突拍子もない話だな。予知能力とか言いだすのかい?」 「わたしたちは非科学的な思念のすべてを排除し、徹底して科学的であろうとしています。オカルティズムは専門外です。ただし、歴史上起こりうることを前もって知る立場にはあります。歴史そのものをつくりだす存在ですから」 「……あのう。何を言いだすんだい、ポアさん」 「幸太郎さんは、メフィスト・コンサルティング・グループについてご存じでしょうか」 「メフィストって……ああ、世界的なコンサルティング企業じゃなかったっけ? あらゆる流行をクライアントの意のままに作りだすとか。日本支社はたしか赤坂に……」 「表向きはたしかにそうです。しかしながら、メフィストの本分はそこではありません。特殊事業課なる部署が、全世界、全人類の生活のあらゆる段階に工作員を送りこみ、心理学的な煽動《せんどう》を用いて歴史をある一定の方向に導いているのです。わたしたちは常に歴史の陰に暗躍し、決して表社会にその存在を嗅《か》ぎつけられたりすることはありません。工作活動の証拠を残すこともないのです。すべては、気づかれないうちに人を操り、意志とは無関係の行動をとらせることによって、シナリオどおりの歴史を築いていくのです」  しんと静まりかえった室内。しらけているといったほうが正確かもしれない。幸太郎はまたしても呆気《あつけ》にとられるばかりだった。 「ポアさん、そのう、その手の話なら昔『ムー』って雑誌で読んだことあるけどさ。太平洋戦争とか、戦後復興とか、バブル景気とその後の不況とか、ぜんぶ秘密結社が関与してるとかいう記事を……」 「関与じゃありません。計画し実行したんです。全世界のバランスの維持および、主に欧米に存在する有数のクライアントの需要に応じるために」 「……ポアさんがその工作員だとでもいうのか?」  ポアは静かにうなずいた。「ええ」 「ありえないよ。きのう、求人掲示板の書きこみを見てここに就職を決めたんだろ? こんなところに来たって、麗香と僕がいるだけだし……」 「その麗香さんが重要なの」 「彼女もメフィストの工作員だとでもいうのかい?」 「いいえ。でも麗香さんは、わがグループ系列企業にとってきわめて重要な存在。片時も目を離すわけにはいかないのです」  幸太郎は口をつぐんだ。  きのうからきょうにかけて、あまりにも常軌を逸した事態の連続だ。しかも、ポアから聞かされた話はずばぬけて荒唐|無稽《むけい》だった。 「けどさぁ」幸太郎はいった。「心理学で人類を煽動するのかい? そんなこと唐突に言われてもなあ。だいたい、心理学なんてものはいい加減で、こじつけじみた理論が多いって話だし……」  その瞬間、ポアの瞳《ひとみ》が不自然な変化を遂げたのを、幸太郎はまのあたりにした。虹彩《こうさい》が縮小と拡大を繰り返し、眼球は素早く上下左右に動いた。  それも一瞬のことにすぎず、ポアは落ち着き払った声でいった。「あなたは焦りと緊張を感じながら、外にでた麗香さんの身を案じている。弁護士に相談したいとも思ったけど、どこに電話してどのように手続きをとればいいかわからないし、お金もないから断念せざるをえないと感じている。それと、Sクラスからオロチに乗り換えたのを残念がってる。オロチはスマートキーじゃなく普通のキーで、そのため先端でドアの把《と》っ手《て》付近に傷をつけてしまったけど、それが麗香さんにバレるのを恐れている」 「あ、ど、どうしてそれを……。監視してたのか?」 「いいえ。上まぶたが上がって、下まぶたはかすかに痙攣《けいれん》している。顎が下がって口が開き、唇は水平方向に伸びている。そんな表情が生じるってことは、怯《おび》えの感情が生じているからです。さっきから何度もポケットのなかのキーをいじりながら、後悔の念を浮かべていることもわかってます。つまりは、キーでなんらかの失態を演じて、麗香さんの怒りを買うことに恐怖していたとわかったのです」 「僕の表情から、感情を完璧《かんぺき》に読んだってことかい!?」 「メフィスト・コンサルティングの正社員ならば、当然身につけている技術です」 「たしか同じ特技で有名になってるカウンセラーさんがいるけど、彼女も……?」 「岬美由紀ですね。彼女は違います。わたしたちメフィストとは何度か接触していますが、決して理念の交わることのない存在です。わたしたちは歴史を創造し、彼女は破壊します」 「すると、人知れず千里眼対メフィスト・コンサルティングの闘いでも繰り広げられてるってことかい?」 「的確な表現です」 「んな馬鹿な! この世の中がメフィストに操られてるだって? 俺が就職できなかったり、ハローワークで京城さんに会ったりしたのも偶然じゃなかったってのか?」 「そういう意味ではありません。わたしたちが操作をおこなうのは歴史上必要となるターニングポイントのみです。四六時中、取るに足らない庶民の生活まですべてをコントロールするわけではありません。歴史の流れを作ってやれば大衆はほとんどが迎合し、そのまま流されて生きるだけですから」 「酷《ひど》い言われようだな……」 「ごめんなさい。でも事実なんです」 「京城麗香さんは例外ってことなんだよな? 彼女はメフィストにとって、どんな存在なんだ?」 「それを説明するのは困難です。ある意味では、わたしたちにもそれがあきらかでないから、彼女を重要人物とみなしているというか……」 「ああ、もう。わかんないよ。信じられないことばかりだ。それに理解もしがたい。ええと、待ってくれよ。きみがここに来たのは偶然じゃないんだな? 京城麗香に近づくために、就職希望をだしたってわけか? 不法就労の韓国人女性みたいに頼りない立場に見えたのも偽装で、じつはメフィストが送りこんできた工作員だってのか? しっくりこないよ。もっとわかりやすくいってくれよ。あんた何者だ?」  ふいにポアは真顔になり、幸太郎をじっと見つめた。「涼宮《すずみや》ハルヒの監視役に送りこまれた長門有希《ながとゆき》のような立場。ご理解いただけましたか?」 「あ……ああ。すごくわかりやすかった……」  ポアがアニメオタクとは思えない。こちらの趣味や嗜好《しこう》にあわせて、あらゆる比喩《ひゆ》を可能にする知識を身につけていると見るべきなのだろう。まだ百パーセント信じる気になったわけではないが……。  そのとき、パトカーのサイレンの音が鳴りだした。窓の外から響いてくる。  窓辺に駆け寄り、眼下に目を向ける。  雑居ビルの前、麗香を乗せたセダンが、パトカーの先導につづいて走りだしていく。 「行っちまうよ」と幸太郎は思わず叫んだ。  次の瞬間、ポアがいきなり腕を幸太郎の首にからめてきた。  幸太郎はのけぞった。まさか、俺も失神させようというのか?  だが、ポアは首を絞めあげようとはせず、そのまま幸太郎を後方に引き倒した。「窓から離れて!」  なんのことだ。  そう思ったとき、突き上げるような衝撃が襲った。轟音《ごうおん》とともに、ビルは激しく揺れだした。 [#改ページ]   地震  美由紀はガヤルドでレインボーブリッジを駆け抜けているところだった。  湾岸線から都内方面、この先の浜崎橋《はまざきばし》ジャンクションの渋滞もあまり延びてはいない。クルマの流れはスムーズだった。  ところが橋の中央付近に差し掛かったとき、ふいにハンドルをとられ、クルマの進路が大きくずれた。  突風、初めはそんな印象だった。だが、美由紀はすぐに原因が風ではないと気づいた。  満身の力をこめてブレーキペダルを踏み締める。前を走っているトラックも急停車していた。ぶつかりそうな寸前でステアリングを切り、わずかにペダルを戻してブレーキング・ドリフトの要領でクルマを傾け、衝突を逃れる。  激しい縦揺れ、耳をつんざく轟音、そして悲鳴。  驚いたことに、前方に見える赤坂方面の景色は斜めになっていた。まるで船底のように左右に揺れている。地面が傾いているのではない、橋が大きく揺らいでいるのだ。  衝突音がした。近くで追突が起きた。後続の何台かに玉突きが起き、ガラスの割れる音とともに破片が飛び散っている。  クルマを降りた人々が橋の上を走りだし、辺りはパニックになった。  母親に手をひかれている男の子が、転倒したのが目に入った。  次々に押し寄せる大人たちの足もとに転がったまま、起きあがれずにいる。母親も引き返すことができないありさまだ。  美由紀はガヤルドのドアを開け放ち、外にでた。  人を掻《か》き分けながら、男の子が倒れた場所に駆けていく。  突きあげる震動はなおも断続的につづき、そのたびに悲鳴やどよめきが響きわたる。混乱のなかを、美由紀は姿勢を低くして進んだ。  男の子はアスファルトの上に横たわり、うずくまって震えていた。 「だいじょうぶ?」と美由紀はきいた。 「怖い」男の子がつぶやくのが聞こえる。「死んじゃうよ。橋が落ちる……」 「いいえ。そんなことにはならない。街なかにいるより、ずっと安全よ」 「お母さん……」 「心配ないわ。すぐに会えるから。それまでわたしがお母さんだと思って。ほら、抱きついて」  美由紀がうながすと、男の子は泣きじゃくりながらすがりついてきた。  その小さな身体を抱きしめながら、美由紀は立ちあがった。  逃げ惑う人々がマラソンのように、車両の隙間を駆け抜けていく。  さっき見かけた母親を目で探したが、見当たらない。人の流れに押されて、遠ざかってしまったのだろうか。  震度六強、あるいは震度七に至っているかもしれない。強烈な揺れはしばらくつづいた。  橋梁《きようりよう》が唸《うな》るような音を立てていた。なにかが裂けるようなバリバリという音も聞こえる。  外灯などの倒れやすそうな物が付近にないことを確認してから、美由紀は男の子の頭部を抱きしめて保護し、その場にしゃがんだ。  激しい震動のなかで、無人のクルマが動きだし、ビリヤードの球のように互いに衝突を繰り返す。へたに走りまわったのでは、それらの車両に挟まれる可能性があった。  あろうことか、橋を吊《つ》り下げているワイヤーの何本かが切断されて宙に舞っている。アスファルトにも亀裂が入り、路面の一部が大きく隆起した。クルマが弾《はじ》き飛ばされて横転し、爆発音とともにボンネットから火柱があがった。  肌を焼くような熱風が押し寄せる。  しばらくして、ようやく揺れがおさまってきた。  美由紀がふたたび立ちあがったとき、女性の声がした。「隆志!」 「お母さん」男の子が叫びかえした。  美由紀は混雑する一帯を、男の子の身をかばいながらその母親のもとに駆け寄っていった。  ようやく美由紀がそこまで行き着くと、母親は男の子を抱きしめた。「隆志。よかった……」 「避難してください」美由紀はその母親にいった。「揺れがおさまるまで待って、この先のパーキングエリアへのスロープを下るんです」  母親は混乱ぎみのようすで、青ざめた顔でまくしたてた。「パーキングエリア? そんなの、どこにも出られない。地上に降りたいのよ。こんなところにはいたくない。橋なんてドカーンと落ちたり、高架線なんてバスーンと倒れたり……」  その声を聞きつけた周辺の人々に、恐怖が伝染したらしい。悲鳴はひときわ大きくなり、誰もが我先にと逃走しはじめた。  パニックを鎮めねば。  美由紀はとっさに声を張りあげた。「落ち着いて! みなさん、パーキングエリアで働く従業員がどうやって出勤してるか知ってますか!?」  いきなりの出題に、とりあえず先を聞こうという心理が起きたらしい。  集団は歩を緩めて振り返った。  群集のなかから声があがる。「さあ。クルマで来るんじゃないの?」 「まさか」と美由紀はいった。「それじゃ渋滞のときに不便でしょ? パーキングエリアには従業員用の裏口の階段があって、地上と行き来できるんです。たぶん、いまは解放されているでしょう」  そこまではよかった。だが、人々がおとなしくしているのもそれまでだった。  橋の向こうにあるパーキングエリアに脱出ルートがあると知り、被災者らはまたいっせいに駆けだした。  だが、その行く手ではトラックとバスが斜めになって停まっていて、通行できる隙間はわずかだった。そこに大勢が押し寄せたため、人々の流れは滞ったばかりか、さらに後方から殺到する群集のせいで将棋倒しが起きそうになった。  これでは避難は不可能だ。二次災害が起きる可能性もある。 「走らないで」美由紀は大声で呼びかけた。「危険です。それに、パーキングエリアは高架線の下だから安全とは言いきれません。余震が収まるまでは拓《ひら》けた場所にいるほうが……」  と、そのとき、美由紀をじっと見つめていた男性が声をあげた。「この人、岬美由紀さんだ!」  ざわっとしたどよめきが広がり、群集はまた立ちどまってこちらに目を向けた。 「岬美由紀さんって」女性の声が飛ぶ。「氏神高校事件を解決した人?」 「旅客機の墜落を防いだ人だよね?」と別の男性。  さらに別の男性の声。「いんちき占い師の厳島咲子《いつくしまさきこ》をやりこめた人だ」  あ、やばい……。美由紀は心のなかでつぶやいた。  直後、人々は避難することさえ忘れ、いっせいに美由紀に向かって押し寄せてきた。誰もが手を差し伸べながら、必死で訴えかけてくる。  助けてください、こんなときに頼りにできる人はあなただけです。テロじゃないですよね? もしそうだとしても、岬先生なら守ってくださいますよね? わたし、最近|鬱《うつ》になりがちで、ぜひ岬先生に相談したいんですけど。千里眼だそうですが、僕の考えてることわかります? 一緒に写真撮っていいですか。握手してくれませんか。うちの夫がなに考えてるか最近わからなくて、岬先生に見抜いてほしくて……。|Wii《ウイー》がまだ買えません、電気屋の抽選はインチキです、懲らしめてください。きょうは戦闘機乗らないんですか? 孫がファンなんでサイン貰《もら》っていいかね。  美由紀は殺到する人々に圧迫され身動きがとれなくなった。  困った人たちだ。まだ余震が起きるかもしれないというのに。 「すみません、みなさん。いまは避難が大事です。パーキングエリアに向かう人たちのために道を開けてください」  ところが、群集は誰ひとりとして動かなかった。どうやら、美由紀との面会を差し置いて避難しようという人間は皆無に等しいようだった。  やむをえない。状況を逆に利用して、避難誘導を円滑なものにしよう。それしかない。  美由紀はいった。「わかりました。こんな状況ですので、おひとりさま三秒以内の面会になりますが、順にお会いします。ご相談内容をお持ちの場合は、お名刺をくださるか、電話番号かメールアドレスをお伝えください。後日ご連絡いたします。では、こちらに並んでください。終わった人から、橋の向こうのパーキングエリアに向かってください」  人々はいっせいに動きだし、美由紀の前に列をつくりだした。  大地震の後でも略奪など起こさず、コンビニのレジにきちんと並ぶ世界でも唯一の国民。  その国民性がここでも発揮されつつあった。  パニックがおさまったのはさいわいだった。  美由紀は握手を求める人々に応じながら、余震に対する心構えを語りかけた。「エレベーターがあっても乗らないでくださいね。もし万が一乗ってしまった場合、余震が起きて閉じ込められても、非常停止ボタンを押すことで扉を手動で開けることができます。ゆりかもめの線路上にも絶対、降りないでください。感電する危険が大です」  どこかの祭りに出店していた業者が帰るところだったのだろう、ワゴンの荷台から、とうもろこしの屋台を下ろして列の脇に設置する者たちがいた。それを見ていた若者たちがシートを敷いて座り、品物を並べてフリーマーケットを始めた。  遠方に目を転じると、列の後方ではダフ屋らしき男たちまでうろついている。  美由紀は思わずため息をついた。  レインボーブリッジの上でイベントが催されつつある。非常識な行動をしでかした京城麗香の行方を追おうとしているのに、自分が非常識に染まりつつある。 [#改ページ]   マグニチュード  事務所の窓ガラスはすべて割れ、外気が吹きこんでいる。  風に乗って緊急車両のサイレンの音が響いてくる以外、街は異様なほど静かだった。  幸太郎は床にへたりこんだまま、ポアの行動を呆然《ぼうぜん》と眺めていた。  ポアは失神したままの刑事の襟もとをつかみ、床をひきずっていくと、扉を開けて廊下に投げだした。  面食らって、幸太郎はつぶやいた。「なにを……」  扉を閉めてポアがいった。「都心部に震度七の大地震発生。私服警官が転倒して頭を打ち、気を失うことがあったとしても、さほど意外ではありません」 「でもあの刑事さんは、きみが攻撃してきたことを覚えてるだろ?」 「本人はみずからの記憶に疑いを持たないでしょうが、彼の訴えを聞く同僚はそうではない。事務職の若い女性にムエタイで攻撃され、首を絞められて失神などという状況が信じられるはずもありません。結局、大地震の発生による記憶の混乱、PTSDによる幻覚などと片付けられるでしょう」 「京城麗香さんを連行していった刑事たちが、きみに疑いを持つかも」 「それも心配ないんです。刑事たちはもう、京城麗香に構ってなどいません。窓の外を見てください」  幸太郎は膝《ひざ》の震えを抑えながら、なんとか立ちあがった。  窓辺に近づいてみる。  いくつかの家屋が倒壊し、瓦が散乱している。アスファルトにひびが入った大久保通り沿い、地震発生の直前に走りだしたはずのパトカーは、少し離れたところに停車していた。  警視庁捜査三課の新藤という刑事が、ほかの刑事らと駆けまわっているのが見える。  焦燥のいろを浮かべ、制服警官らになにか指示をだしていた。  パトカーの後部座席のドアは開けっぱなしになっていた。麗香の姿はない。  察するに、地震の混乱のなかで逃げだしたのだろう。新藤たちの狼狽《ろうばい》ぶりを見るかぎり、まだ発見できていないようだ。  と、無線の呼びだしがあったらしく、新藤がパトカーに乗りこんでマイクを手にとった。  しばらく、なにごとかまくしたてていたが、やがてマイクを叩《たた》きつけると、ほかの刑事らに声をかける。  全員が車内に乗りこみ、パトランプを灯《とも》して走りだす。  現場に残った警察関係者はひとりもいなかった。 「なんだ?」幸太郎はつぶやいた。「逮捕者に逃げられたのに、放りだしていくなんて」  ポアが近づいてきて、並んで窓の外を眺めた。「日本人は地震のあとも決して治安を乱すことはありませんが、外国人は別です。東京在住のアジア系外国人には、不法就労者が少なくない。彼らのなかの一部が率先して、混乱に乗じた略奪を始める。窃盗被害の件数は地震発生前の比ではなくなる。当然、捜査三課の刑事は総動員で捜査に駆りだされるわけです」 「京城さんより、そっちの捜査が優先されるっていうのか?」 「治安維持に結びつくことですから、警察にとって最優先事項です。クルマを盗み、109の前でパフォーマンスをおこなっただけの京城麗香は、いまのところ誰も傷つけてはおらず、取り立てて危険分子とは見なされない。あの新藤という刑事はそう思っていませんが、警察組織の上層部は杓子《しやくし》定規なものの見方しかできません。ひとりの女よりも複数の外国人による犯罪を懸念するのは、彼らにとって常識です」 「でもその常識が通用しないのがきみたち、っていうことだな?」  ポアは真顔でうなずいた。「彼らはこの地震が自然発生したと思いこんでいます。それ以外の可能性を疑うことさえない。でも実際には、東京に地震を起こすことなど難しくありません。東京湾北縁断層、すなわち千葉県北西部の東京湾沿いを北西から南東方向に延びる伏在《ふくざい》断層。活断層でなくてもこの地下十キロ地点に七百メガトンの爆発を起こすことにより、マグニチュード七・五の大地震となって地表に影響を及ぼします」 「地震を起こした? きみらが? 何のために?」 「京城麗香を警察の魔手から解放するためです。さすが京城麗香。千載一遇のチャンスを逃さず、まんまと身を潜めましたね」 「ありえないだろ、そんなの! 女ひとりを逃がすために大地震だなんて」 「証拠を残さないためには自然現象を装うのが一番です。むろん放射能の影響が残る核爆弾は用いていません。例によりベルティック・プラズマ爆弾によるクリーンな破壊が活用されています」  例によりと言われても、メフィストの陰謀論とやらを語る女と初めて出会った俺としては、なんのことかさっぱり理解できない。  ひょっとして、すべてはこじつけではなかろうか。偶然起きた地震までも、必然だったかのようにうそぶいて、俺を煙に巻こうとでもしているんじゃなかろうか。  すると、ふたたび心を読むかのように瞳《ひとみ》のセンサーを素早く作動させたポアが、冷ややかな微笑とともにいった。「こじつけではありません。歴史はメフィスト・コンサルティングの管理と統制のもとに刻まれていくんですよ、幸太郎さん」 「そうすると、行方をくらました京城さんがどうなるかも、あらかじめ設定済みなのかい?」 「もちろんです。わたしは地震発生直後から目を逸《そ》らさず、ここから彼女の行動を注視していました。京城麗香はあのマクドナルドの脇にある路地、イナバ物置のモノパルテという商品名の倉庫に潜んでいます」 「倉庫の商品名まで覚えているなんて……」 「イナバ物置の商品名はきわめて上品かつ芸術的です。床が土間打ちになっているものはドマール、車庫はシャコリーナと名づけられています」  上品だろうか。メフィストという組織の考える芸術性の基準はよくわからない。 「それで」と幸太郎はきいた。「倉庫に逃げこんだ彼女を、誰が迎えに行くんだい?」 「あなたです。幸太郎さん」 「俺?」 「そうです。彼女の心理を考慮すれば、現状で彼女を迎えられる人物は、あなたをおいてほかに存在しません。それと、もうひとつ留意していただきたいことがあります」 「なんだい?」  ポアはじっと幸太郎を見つめてきた。「メフィスト・コンサルティングについて、京城麗香には明かさないほうがいいでしょう。彼女のため、そしてあなた自身のためにも」 [#改ページ]   恐怖の感情  ポアがそう言い切った意味も理由もさっぱりわからないが、麗香を放ってはおけない。  幸太郎はひとり雑居ビルをでた。  地震後の街並みは、すでに平穏を取り戻しつつあった。  たしかに大規模な被害が生じてはいるが、少なくとも辺り一面が瓦礫《がれき》の山ということはなかった。  古民家が倒壊し、店の陳列棚は悲惨なことになっているようだが、ビルはびくともしていないし、怪我人も見当たらない。路上では信号機や標識、並木が倒れたりしているが、それらの下敷きになった人もいないようだった。  日本の建築物の耐震強度ってのは案外きちんと算出されてるものなんだな、幸太郎はぼんやりと思った。  それでも、余震への恐怖は辺り一帯に張り詰めた空気を漂わせていた。マクドナルドの女性店員らも、不安げなようすで外にでている。いま彼女たちにスマイル|〇《ゼロ》円を要求したら、きっと逆鱗《げきりん》に触れるに違いない。  ひとけのない路地に入り、倉庫に近づいた。  これがモノパルテか。店舗の裏によくある、ごくありきたりの収納だ。つくづくネーミングのセンスの是非が気にかかる。  スライド式の扉はわずかに開いていた。  幸太郎はそこに手をかけて、がらっと横滑りに扉を開けた。  段ボールが山積みされた倉庫のなかで、わずかな隙間にうずくまる麗香の姿があった。  麗香は顔を伏せていたが、やがて目線をあげてきた。  ひどく不安そうな顔。血の気がひいて青ざめている。目にはうっすらと涙が浮かんでいた。  だが、そんな憂いのいろも一瞬だけだった。  麗香はまたいつものように、ふくれっ面をしてにらみつけてきた。「なによ。警察に見つかっちゃうでしょ。あっち行って」 「警察ならもういないよ。地震でそれどころじゃないってさ」 「あ、そうなの? そりゃラッキー……っていうか、偶然なわけないじゃん!」ふいに顔を輝かせた麗香が、倉庫から這《は》いだしてきた。「国家の犬どもに捕まりそうになった寸前に、天変地異が発生だなんて! そんなの運が良すぎる。これはあいつらの陰謀よ!」 「あいつらって……」  メフィストと言いかけて、幸太郎は口をつぐんだ。ポアは、その組織の名を口にすべきではない、そういった。  だが、麗香のほうはあきらかにポアが主張したことと同様の推測に及んでいる。  麗香は興奮ぎみにまくしたてた。「きっと千葉県南部あたりの断層でも爆破して、人工地震を起こしたんだわ! やっぱりあいつら、わたしに接触してきたのよ!」 「おいおい」幸太郎はあえて無関心を装っていった。「きみひとりのために大地震を起こすなんて、そんな酔狂な奴らがいるのか?」 「ええ、このタイミングでの地震がなによりの証拠よ」 「大勢の人々に被害が出るのに?」 「そうでもないじゃん。断層に近い木更津《きさらづ》あたりの被害は大きいかもしれないけどさ、あのあたりって格安の土地を不動産屋が買い占めて地上げしてて、そこんとこが超雰囲気悪いんだよね。いっぺん売れなくなって不動産屋に泣きをみてもらったほうが健全だし」  無茶苦茶な論理だ。被災者の心情を理解する気は、これっぽっちもないらしい。まさしく、世界が自分を中心にまわっていると錯覚している女だ。  とはいえ、幸太郎は麗香を嫌悪しきれなかった。  ここに独りできたとき、まぎれもなく彼女は怯《おび》えていた。しかしいまは未知の組織の関与を疑いもなく信じ、そのことに喜びを覚えて、はしゃぎまわっている。  どうして彼女はここまで急激な感情の変化をしめすのだろう。  なぜ俺の顔を見た瞬間に、恐怖の感情は吹き飛んでしまったのか。 [#改ページ]   マンメイド・アースクェイク  午後六時、長い夏の一日もようやく夕暮れを迎えようとしている。  芝浦の埠頭《ふとう》から少し離れた高台にある、広大な平面駐車場は臨時の避難場所になっていた。  付近の一戸建てやマンションに住む人々はここに逃れてきている。ほとんどが高齢者だった。心配された余震がさほど起きなかったせいもあり、働き手はすでに職場に戻っているようだ。  岬美由紀はPTSDの兆候が疑われる被災者のカウンセリングを買ってでて、避難場所のなかを駆けずりまわっていたが、この時間になってようやくひと息つくことができた。  応援の臨床心理士も大勢駆けつけてくれたおかげでもある。それに、あの震度のわりには被害が小さかったことから、ショックを受けた人の数も予想より少なかった。  本部のテントで受け取ったミネラルウォーターを飲みながら、美由紀は避難場所の片隅でため息をついた。  陸上自衛隊の練馬|駐屯地《ちゆうとんち》から災害救助のためにやってきた部隊も、人命にかかわる救難活動はあらかた終えて、いまはもっぱら災害によって生じた大量のゴミを運搬する作業に忙しい。  この避難場所の半分ぐらいはそれらゴミの集積所と化しつつある。どうやって処分する気だろう。東京湾にまた埋立地が増えるのだろうか。  聞きなれた声が呼びかけてきた。「美由紀」  美由紀は、近づいてくる髭面《ひげづら》で小太りの男に気づいた。「あ、舎利弗先生」 「無事かい? レインボーブリッジの上では大変だったみたいだね」 「そうでもないわよ。みんなおとなしく整列して避難することに賛成してくれたし」 「ほんと? 驚きだなぁ。橋の上でのパニックを鎮めたうえに、滞りなく人を逃がしたわけだろう? 消防庁の人も感心していたよ。いったいどうやって群集をなだめたんだい?」  べつになだめたわけではない。サイン会と握手会をおこなう羽目になっただけだ。おかげでビニール袋五つぶんもの名刺と連絡先を書いたメモを受け取ることになってしまった。  美由紀は遠方にみえるレインボーブリッジを眺めた。  夕闇が迫る空のなか、白く浮かびあがる橋の上、ヘッドライトの河が流れている。  交通も滞りなく復興した。  しかし、どうにも気になることがある。たしかに震度六強、いや七クラスの揺れだった。それなのに、被害が小さすぎる。都市機能の復興もあきれるほど早かった。  東京という都市は、そこまで地震災害への備えができていただろうか。 「岬先生」また呼びかける声があった。若い男の声だった。  振りかえると、迷彩服にヘルメット姿の陸上自衛隊員が敬礼した。「吉垣《よしがき》二等陸佐がお呼びです」 「行きます。じゃ、舎利弗先生。またあとで」  本部のテントに歩を進めていく。  吉垣二佐とは、さっき顔を合わせた。美由紀よりいくつか年上の男性だった。  美由紀が近づくと、吉垣はテーブル上の地図から顔をあげた。ほかにスーツ姿の男たちが何人か、同様にテーブルを囲んでいる。 「ああ、岬元二尉」吉垣が気さくに声をかけてきた。「最新の被害状況があきらかになったよ」 「どうでしたか? 都内のほかの区域は?」 「首都圏全域で死者ゼロ、重傷の十七名はいずれも命に別状なし。港区をはじめとする都内各地で震度七を記録したわりには、奇跡的だよ」 「よかった。でも、たしかにふしぎですね。倒壊した家屋も最小限なんて……」 「それについてなんだが……こちらは国土交通省の地域整備局、村野《むらの》氏だ。各地のデータから分析した結果、きわめて奇妙な地震といえるらしい」 「奇妙?」美由紀はスーツの男にきいた。「どんなふうに?」  村野は眼鏡の眉間《みけん》を指で押さえながら、真顔で告げた。「震動は大きかったが、揺れの方向が一定だったおかげで、それぞれの建造物の耐震強度がいかんなく発揮された。いわゆるP波、縦揺れがあっただけで、ねじれを生じさせる横波のS波が生じない。あたかも、被害を小さく抑えることを意図したかのようにだ」 「それはどういう……」 「詳しいことはわからんし、現時点では推測にすぎん。だが岬先生、あなたも防衛大にいたとき、米軍のマンメイド・アースクェイク計画については学習したと思うが」 「ええ。防衛学の授業で触れられていましたね。カリフォルニアのサン・アンドレアス断層に、掘削用ドリルを取りつけた無人機を地中深く潜らせ、搭載した核爆弾で爆発を起こすと、人工地震を発生させられるというものです。震源の位置と地震の強度をあらかじめ設定できるので、自然発生の地震に比べて安定した揺れになるとか」 「そうだ。地層の状態が不安定になり、大地震が起きそうな兆候があるときに、あえて人工地震を起こして大地のストレスを消費させる。都市部の建造物やインフラが耐えうる範囲の地震ならば、予測不可能な揺れをもたらす自然の地震よりありがたいわけだ。核ミサイル基地の報復装置を誤作動させないためにも、米軍の人工地震計画はカリフォルニアには必要不可欠とされていた」 「でもそれも、核拡散防止条約以降のミサイル兵器削減で見直され、現状では研究は中断してるはずですが」 「ところがだ。今回の地震はそれによって引き起こされた可能性がある」  美由紀は息を呑《の》んだ。「東京の地下で核爆発を?」  吉垣が身を乗りだした。「核とは限らん。現代では、放射能の心配なしに同じクラスの破壊力を発揮するベルティック・プラズマも存在する」  村野がうなずく。「われわれは東京湾北縁断層を長年にわたり調査してきた。地表に変位は認められず、第四紀後期の断層活動を示す変位地形もない。あれは活断層ではなかった。にもかかわらず、今回の地震は東京湾北縁断層を震源とし、しかもデータの数値がマンメイド・アースクェイク計画に酷似している」 「人工地震とすれば」吉垣はふうっとため息をついた。「これは新たなテロ攻撃となりうる可能性もある」  関東各地の地震計の数値が書きこまれた地図を、美由紀は見つめた。「物証はないんでしょうか? 震源が特定できれば、その場所で怪しげな工事をおこなっていた団体もあきらかになるはずですけど」 「むろん、防衛省は警察の捜査に協力し、震源の割りだしに全力を挙げることになるだろう。さいわい、マンメイド・アースクェイクのデータは米国のエネルギー省に揃ってる。地層の変化と震度の分布を参照しながら、三つの観測点の初期微動継続時間から大森公式で震源距離を計算、距離が等間隔で交わる地点が震源だ」 「工事現場からベルティック・プラズマ爆弾の残骸《ざんがい》が発見できれば、人工地震を立証できますね。ただ……被害が最小限だったというのが気になりますけど。テロは失敗に終わったってことでしょうか?」  咳《せき》ばらいをして村野が告げる。「そうとは言いきれん。実験もしくは大規模破壊以外の目的だったとも考えられる。今回の地震は内陸型だが直下型ではなく、縦揺れのみだった。この震動に弱い地域といえば、武蔵野台地のなかでも低層に位置する、沖積層の多い一帯に限られる。事実、そこだけが甚大な被害を受けたようだ」 「武蔵野台地といえば……新宿区とかその辺りを含んでますね?」 「そう。そのなかで沖積層が多い場所といえば」村野はサインペンを手にとり、地図上に丸をつけた。「このあたりだ」  吉垣が深刻そうにつぶやいた。「その半径五キロ圏内だけが震度七相応の被害を受けてる。私たちも要請がありしだい、応援に向かう手筈《てはず》になっている」  美由紀は地図を見つめて黙りこくった。  サインペンで囲まれた地域。大久保駅と新大久保駅の中間に位置する場所。  寒気に鳥肌が立つ思いだった。きょう向かおうとしていたところだ。  警察から連絡のあった住所。京城麗香が法人登記した会社の所在地周辺だった。 [#改ページ]   希望の星  夜になった。  株式会社レイカということになった雑居ビルの三階も、昼の陽射しのもとではみすぼらしさばかりが目立ったが、蛍光灯の明かりの下ではさほどでもない。  幸太郎は事務所の隅にうずくまっていた。いろいろあって疲れた。立ちあがる気も起きない。  ただし、この事務所の主《あるじ》である麗香は、あいかわらず疲れ知らずのようすだった。いまも戸口に立ち、押しかける被災者らと押し問答を繰り返している。 「だからさ」麗香はきっぱりと言い放った。「あんたたちは招かれざる客だっての。ここは会社。取り引き相手以外は立ち入り禁止」  廊下には大勢の人々が詰めかけているようだ。  その先頭の男がいった。「地震でどこも停電してると言ってるだろう。このビルだけ明かりが点《つ》いているんだ、避難させてくれてもいいじゃないか」  別の男性がいう。「電車も停まってるし、電話も通じない。休もうにも、どの建物のなかも蒸し暑くて寝苦しい。ここだけが唯一の例外なんだよ。ああ、涼しい風が……」 「ちょっと」麗香はいった。「開け放たれたドアから流れだす冷気で、勝手に涼まないでくれる? この涼しさもうちの財産なんだし。たしかにさ、この事務所じゃ電気はもちろん、キッチンの水道も機能してるし、ガスも使えるからお風呂にも入れるし……」  人々のどよめきが響いてきた。 「水道!」女性の声がした。「どこも断水なのよ。どうしてこのビルだけ使えるっていうの」 「わたしに聞いてもわかんないわよ。どうしてもこのビルに入りたいってんなら、ほかのフロアに行ったら?」 「だから、さっきも言ったでしょ。ほかのフロアは満員なの。ここだけが最後の望みなのよ」 「そんなこと言われてもさー。拝み倒しただけで一夜の宿にありつこうなんて、ムシが良すぎない? 『田舎に泊まろう』じゃあるまいし」  一同はしんと静まりかえった。 「金をとろうってのか」男性が語気を荒くした。「こんなときに足元を見やがって……」  ところが、ほかの男性が声をあげた。「俺は払う」  女性の声がつづいた。「わたしも」  麗香は髪をかきあげながら告げた。「支払いは現金のみ、前払いで三万。領収書の求めには応じられないから。入浴料や水道代は別。払える人だけ、先着で……十人ぐらいだけ受け付けようかな」  人々は我先にと現金を取りだし、それを振りかざして支払いを申しでた。その剣幕たるや、築地《つきじ》の朝の競りさながらだった。 「まってよ」麗香は投げやりにいった。「多すぎるって。ちょっと間引きしなきゃね。ええと、佐藤さんって苗字《みようじ》の人……」  何人かが勢いよく手を挙げた。 「はい脱落」と麗香は無慈悲に告げた。 「おい!」男性が悲痛な声をあげる。「なんでだよ!」 「どっかの自費出版小説が当たって以来、間引きといえば佐藤さんじゃん。まとまった人数がいるから、一気に減らすのにちょうどいいんだよねー」 「ふざけんな! 中にいれろ」  だが、ほかの男性らはそれを阻む動きをみせた。「ルールを守れ。お前は脱落したんだろ」 「なんだと? この……」  廊下で人々は殴りあいを始めた。  麗香はそれを見ながら、甲高い声で笑い、飛び跳ねている。  見るに堪えない状況だ。  幸太郎は制止を呼びかけるために立ちあがろうとした。  と、ポアが近づいてきて、コーヒーカップを差しだしてきた。「どうぞ」 「あ……」幸太郎はそれを受けとりながらいった。「ありがとう。でも、あれをやめさせないと」 「無視したほうが賢明ですよ」 「だけど……」 「ここが京城麗香の会社であることは揺るぎない事実です。わたしもあなたも、彼女に雇用される身もしくはその候補ゆえに、ここにいることを許されている。廊下にいる彼らはそうではない。いまあの人たちと立場を入れ替わる気がありますか?」  幸太郎は困惑し、口をつぐんだ。  出て行けるはずがない。ライフラインも全滅した市街地、窓の外に見える景色は真っ暗だ。なにより、警察に追われる身だ。腰抜けといわれても、ここから外に歩を踏みだす勇気は、俺にはない。  ただし、外での出来事がまったく気にならないかといえば、そうではない。  そのとき、ポアが小声でいった。「ご心配なく。あなたのご両親は健在です。ご実家のある武蔵野《むさしの》市東大岩は震度五強でしたが、庭に干してあった洗濯物がさお竹ごと落下し、お母様がきわめて不機嫌になったほかには、なんの被害も発生していません」 「……俺の家を監視してるのかよ?」 「必要な情報収集ですから」ポアは幸太郎の隣りに並んで座りこんで、コーヒーをすすった。「ただし、ご両親の心のなかまで平穏無事かといえば、そうでもありません。あなたの身を案じてますから」 「ああ」幸太郎は頭を抱えた。「どうしよう。俺がお尋ね者になったなんて聞いたら、お袋は卒倒しちまう。こちらから連絡を……」 「いけません。暇な刑事がご実家付近に張りこんでいます」 「なら、どうすりゃいいんだよ」 「わたしたちにお任せください。幸太郎さん。大久保|界隈《かいわい》が大きな被害を受けたなか、どうしてここだけライフラインが生きていると思いますか?」 「メフィストのしわざかい?」 「そうです。今朝、京城麗香がこの物件への入居を決めてすぐ、特殊事業課の工事建築類工作班がビルにつながる電気、上下水道、ガス管、電話線、光ケーブルを補強しました。地震の発生する時間も揺れのメカニズムも判明しているのですから、対策は容易でした」 「もちろんそれらも、なんら物的証拠を残さないようにおこなったってんだろ? 地震とおなじく偶然に見せかけたってわけだ」 「……地震についての偽装は、残念ながら完璧《かんぺき》ではありません。武蔵野台地の沖積層が多い地域にのみ被害を与えるという計画目的は、自然に見せかけるにはあまりに不都合で、そのため遅かれ早かれ事実を見抜かれるでしょう」 「へえ。きみらにも不完全なことってのがあるんだな」 「極めて少ないのですが、皆無ではありません。まして日本の科学水準は世界的に見ても高く、地震国ゆえに地層の研究も進んでいます。アメリカ合衆国のエネルギー省から、人工地震の特徴を伝えるデータも届くでしょう。それでも人工地震については常人の想像を超える事態ゆえに、しばらくは憶測の域をでないでしょうが、そうした常識に惑わされない人間もいます」 「誰?」 「岬美由紀……」  幸太郎は意気消沈していく自分を感じていた。千里眼のヒロインは国民の圧倒的な支持を得ている。俺は、そのヒロインと対峙《たいじ》する敵側に加わってしまったわけか?  悪役かよ? 「ねえ」幸太郎はポアにいった。「どうして岬さんをそんなに目の仇《かたき》にする? 仲良くできないのかな」  と、ポアは殺意ともとれる憎悪のいろを浮かべて、幸太郎をにらみつけてきた。 「岬美由紀はメフィストの敵」ポアは低い声でつぶやいた。「全人類の敵」 「わ、わかった。けどさ、なぜ岬美由紀さんが嗅《か》ぎつけてくるとわかっていながら、京城麗香さんに加担する? きみは彼女の意に沿うままに周辺工作をおこなっているんだろ? たぶん、彼女があっさり法人登記できたのとか、こんな優良物件を見つけられたってのも、きみが関与してるからだよな?」 「ご明察です」 「そこまでして、どうして京城さんのご機嫌をうかがう必要があるんだい? なんで彼女を大事にしてる?」 「京城麗香は、岬美由紀と対等に渡り合える人類最後の切り札。メフィスト・コンサルティングの希望の星」  希望の星。  ようするにスカウトに来たということだろうか。野球にたとえると、これは西武ライオンズが使った禁じ手と同じ、接待というやつか?  まだぴんと来ない。それに、ここまで知った時点で、どうしても気にかかることがある。 「ポアさん。どうして俺に、そんな秘密を打ち明けたんだい? 人類が決して知るはずのない秘密と言っておきながら、一介の失業者の俺に……」 「あなたはもう失業者ではありません。京城麗香はあなたを雇用したつもりでいます。給料もそれなりに払う気でしょう。強いて言えば、あなたの現時点での立場はワーキングプア」 「……失業者よりは出世したわけか」 「幸太郎さん。あなたに対し、京城麗香は信頼を寄せています。だからあなたを漫画喫茶に誘い、法人設立時からビジネス・パートナーとして迎えようとした。彼女がどの時点でそう思ったのかは、あきらかではありません。けれども、彼女があなたを必要と感じているのはたしかでしょう。彼女がそう思うのなら、わたしたちはその意志を尊重する」 「はあ……。俺、京城さんに気に入られてる? そうは思えないんだけど……」 「事実ですよ。彼女はあなたとはうまくやっている。しかも彼女はあなたを手玉にとっていないし、あなたもそんな魔手にはかかっていない。男性としてはきわめて珍しい存在なんですよ、幸太郎さんは」 「え? なんだって? そりゃどういう意味?」 「いずれわかります。あなたが二度目の地震を生き延びたら」 「二度目の地震だって?」 「ええ」ポアはうなずいた。「一度きりの人工地震となると、合衆国のエネルギー省のマンメイド・アースクェイク計画のデータと照合して、すぐに震源が発覚してしまいますが、二度つづけてとなると誰も経験がありません。震源の位置をずらしてもういちど大規模な地震、それも今度は自然災害と同じ規模の被害をもたらす地震を起こせば、地層の分析も不可能になります。警察も防衛省も、人工地震であるという立証は難しくなるでしょう」 「ちょっと待ってよ。次は本格的な地震なの? 被害を必要以上に拡大しないのがきみらのモットーじゃないのかい?」 「いいえ。一度めの地震の破壊力を抑えたのは、京城麗香を無事確保するまではこの国の首都機能を生かしておく、グレート・ジェニファー・レイン女史がそうお決めになったからです。もともとレイン女史はこのアジアの小国を海に沈めることに、なんの躊躇《ちゆうちよ》も示してはおられません。過去にも壊滅を狙ったのですが、岬美由紀に阻止されました」  こちらに身を置くことは、もはや間違い以外のなにものでもない。狂気の集団はメフィスト・コンサルティング、正義の味方は岬美由紀だ。  ここから逃げだしたい衝動に駆られるが、それではおそらく無慈悲な悪人によって血祭りにあげられる気の毒な村人とか、そういうキャラの運命を辿《たど》るのが関の山だろう。そう、俺はまるっきり脇役だ。いつ死に絶えてもおかしくない村人A。生きるも死ぬも、主要キャラのポアたちしだい。 「だ……だけど、本気で国家存続が危うくなるほどの大地震を起こそうってわけじゃ……」  ぞっとするような鋭い目つきが、ふたたび幸太郎に向けられた。  ポアはいった。「関東大震災を上まわる大惨事となるでしょう」 「どうして? もう一度、被害の小さな地震を起こすだけじゃ駄目なのかい?」 「現代は貨幣経済社会であり、メフィスト・コンサルティングも当面は収益性を考慮せねばなりません。計画は常に対費用効果を算出しながら決定に至ります。人工地震発生のためのプランニング、工事、ベルティック・プラズマ爆弾の購入と国内搬入、設置などの費用は、当然ながら回収せねばなりません。レイン女史はあらかじめ、都内各地に保有する建築物のすべてに地震保険をかけております」  今度はまた、ずいぶんと生々しい金銭面の話だ。幸太郎はきいた。「保険の支払いを経費回収に充てようっての?」 「その通り。よって、都内を埋め尽くすあらゆるビルが倒壊するほどの巨大地震が必要なのです。よろしければ、遠方にでも旅行にいかれたほうがいいですよ」  幸太郎は絶句して凍りついた。  それ以上なにもいわず、ポアは立ちあがって歩き去った。  冷えた身体を温めるために、幸太郎はコーヒーをすすった。  人工地震に、歴史の改変に、国家の滅亡。常識を超越した勢力。警察すらあてにできない。逃げ隠れできるところは、どこにもない。  けれども……。  幸太郎は麗香を見つめた。  麗香は、商談が成立した客たちを室内に迎え入れようとしている。 「ポア」麗香が上機嫌にいう。「毛布をだして。あるだけでいいから。それと、この現金三十万、金庫に入れておいて」  俺はまだ、麗香のことを気にかけている。  なぜいつも、彼女の表情ばかり見つめているのだろう。  どうして彼女の言葉を、聞き漏らすまいと耳をそばだてるのだろう。 [#改ページ]   魔手からの救出  午前七時半。  すでに夏の太陽は高いところまで昇っていた。  美由紀はガヤルドを大久保通り方面に走らせていったが、一般車両の乗り入れは禁止されていた。青梅《おうめ》街道のパーキングスペースにガヤルドを停め、あとは徒歩で現地に向かう。  一帯の惨状は、都内のほかの地域とはまるで異なっていた。  古い木造家屋は軒並み倒壊し、窓ガラスは一枚残らず砕け散り、あちこちに火の手があがった痕跡《こんせき》があった。焦げ臭いにおいも漂っている。これで死者がゼロで済んだというのだから、奇跡的というべきだろう。  いや、奇跡などというものは存在しない。これがメフィスト・コンサルティングの起こした人工地震なら、被害予測は綿密に計算されていただろう。  どのような動機かはわからないが、京城麗香の設立した会社とその周辺地域に、地震の被害を与えることに彼らの目的はあった。  意図しない殺傷は、歴史を大きく改変する可能性があるため避けるのだろう。少なくとも、神を自負する彼らはそのつもりでやっているに違いない。  半ば瓦礫《がれき》と化した道路沿いでは、陸上自衛隊がすでに活動を始めていた。そこかしこにジープや、96式装輪装甲車まで停車しているのが見える。装甲車は崩れかけたビルの膝《ひざ》もとを調べるために駆りだされたのだろうが、街角に停まっている光景はまるで戒厳令さながらだった。  きのう警察から知らされた株式会社レイカの所在地はすぐそこだ。  その後、警視庁の捜査三課からの連絡はない。彼らは捜査を外れてしまったのかもしれない。メフィストが一枚かんでいるとすれば、どのような工作がおこなわれてもふしぎではない。  雑居ビルの前まで来たとき、路上で停車中のクルマを洗車する青年の姿があった。  そのクルマを見たとき、美由紀のなかに緊張が走った。  爬虫類《はちゆうるい》の顔のようなフロントマスクのクーペ。オロチだった。  青年は、ワイシャツの袖《そで》をまくって、片手にホース、片手にブラシを保持して忙しく立ち働いていた。  ホースからは溢《あふ》れんばかりに水が噴きだしている。この一帯が断水していると伝えられるなか、異様な光景にほかならなかった。  ふと青年がこちらを見た。きょとんとして青年はたずねてきた。「なにか……御用でしょうか?」  警察からは、麗香の共犯者とおぼしき容疑者の名も伝えられていた。  鳥沢幸太郎。  幕張メッセの防犯カメラの映像にうつっていたのは、たしかに彼に間違いない。  美由紀は話しかけた。「すごいクルマね?」 「……まあね」幸太郎は浮かない顔をした。「でも、俺のじゃないし。信じられないかもしれないけど、いちおう社用車でね」 「へえ。変わった会社みたいね」 「そりゃもう。っていうか、会社と呼んでいいのかさえ定かじゃないけど」 「働くのは気が進まないってこと?」 「さあ……。よくわからないな。いつの間にかこんな立場に追いこまれちゃったっていうか……」 「無理やり仲間に引きこまれて戸惑いを覚えているって感じね」  幸太郎はぎょっとした顔になり、美由紀をまっすぐに見つめた。「きみ、誰?」  美由紀が答えようとしたとき、ビルのエントランスに足音が響き、女が外にでてきた。 「きのうは儲《もう》かっちゃったー」ピンクいろのTシャツにジーパン姿の女は、上機嫌にスキップしながら幸太郎に話しかけた。「十人ほど床にゴロ寝させただけで三十万なんてね。ぼったくり店もびっくり」  見覚えのない女。  美由紀の記憶のなかに、その女の顔は存在していない。紛れもない事実だ、そのはずだった。  それでも、美由紀は京城麗香から目をそらすことはできなかった。  奇妙な感覚が刺激される。初対面のはずなのに、とてもそうは思えない。  麗香のほうも、その視線に気づいたらしい。美由紀のほうに目を向けてきた。  しばらくはまだ、麗香の顔に笑いがとどまっていた。その笑顔がしだいに凍りついていく。  その燃えるようなまなざしを見つめたとき、美由紀は麗香の正体が何者かを悟った。  美由紀は呆然《ぼうぜん》とつぶやいた。「西之原夕子《にしのはらゆうこ》……」  すっかり顔が変わり、モデルのように派手で端整なルックスになった西之原夕子も、その素振りに表れる人格面にはなんら変化はないようだった。  夕子の顔にも驚愕《きようがく》のいろが浮かんでいた。そしてしだいに、憎悪の表情へと変貌《へんぼう》していく。 「……てめえかよ」と夕子はいった。  心拍が加速していく。張り裂けそうな胸を手で押さえながら、美由紀はきいた。「無事だったの?」 「何? いまさらどの面下げてわたしに会いに来てんの? わたしに死んでいてほしかったんでしょ? 行方をくらましたけど、重傷を負っている以上もう長くはないなんて安心してたんじゃない? おあいにくさまね。わたし生きてたの。それも見てのとおり、抜群の美貌とともにね」 「……なにをされたの?」美由紀は歩み寄ろうとした。「そこまで徹底的な整形手術を施すなんて。たぶん、あなたの意志とは無関係にそんなことを……」  その瞬間、美由紀は頭上に危険が迫っているのを察知した。  素早く身を退かせたとき、目の前に銀いろの刃が振り下ろされた。  アーミーナイフを手にしたその女は、階上からの降下による奇襲という戦法が失敗したとわかった瞬間、ふたたび跳躍して美由紀の眼前に迫ってきた。  刃がまたしても迫りくる。恐るべき踏みこみの速さ。美由紀は躱《かわ》しきれず、腕を切りつけられた。鋭い痛みが走り、鮮血が飛び散ったのがわかる。  地面に転がって距離を置く。  腕をかばい、傷口に指で触れた。さいわい、それほど深くもない。 「ポア!」麗香はあわてたようにいった。「なにしてるの? そんなもの振りまわすなんて。いったいあんた何者!?」  長い黒髪にOLのようなスーツ姿、しかし足もとはハイヒールではなく深緑のコンバットブーツだった。  ポアと呼ばれたその女は、ナイフを短く持って低く構えるという実戦的な姿勢で、じりじりと間合いを詰めてきた。  美由紀はその表情を読もうとしたが、すぐに相手が常人でないと気づいた。  落ち着き払った自分の声を美由紀はきいた。「メフィスト・コンサルティングが派遣してきたお目付け役みたいね。セルフマインド・プロテクションに限っていえば、クライスラー300Cに乗ってた白人の男よりは上のようね」  ポアは眉《まゆ》ひとつ動かさず、韓国語|訛《なま》りのある声で告げてきた。「岬美由紀。人類の運命を弄《もてあそ》ぶ悪魔と伺っております。この廃墟《はいきよ》同然の街角で屍《しかばね》と化すのがよいでしょう」 「今度は悪魔呼ばわりか。ついこのあいだ、救世主とみなしてくれたばかりのはずなんだけど。メフィスト・コンサルティングにも派閥があるのね。っていうか、いくつかの会社に分かれてるんだっけ? ダビデのお友達じゃないことだけはたしかね」 「わが特別顧問グレート・ジェニファー・レインの名にかけて、あなたを葬らせていただきます」 「ジェニファー? 聞いたことのないマイナーキャラよね」 「愚弄《ぐろう》なさらないでください!」ポアがナイフとともに突進してきた。  美由紀は拳法《けんぽう》の交叉《こうさ》法でその攻撃を受け流し、体を入れ替えてポアの背後から反撃に出ようとしたが、ポアのとった戦術は予想外だった。  振り向きもせず、ポアはわきの下から突きだした拳銃で発砲してきた。  軽く弾《はじ》けるような音だが、充分な殺傷力を持つ四十五口径とわかる。  銃声が連続して響くと、通行人に悲鳴があがった。  地面を転がって避ける美由紀を、ポアは執拗《しつよう》に追い回し射撃する。  流れ弾がどこに着弾するのかを配慮しているようには思えない。辺りはいつ死人がでてもおかしくない修羅場と化した。  美由紀は、まだビルの前にたたずんでいる麗香と幸太郎に怒鳴った。「建物のなかに入って! ぜったいに窓辺に寄らないで。わかった!?」  幸太郎が麗香の手を引き、エントランスのなかに駆けこんでいく。  確認できたのはそこまでだった。またもポアが眼前に迫ってきている。  素早くローキックを繰りだしてポアの足首を蹴《け》った。ポアは転倒したが、なおも転がりながら発砲をつづける。  美由紀は逃走した。ガードレールを飛び越えて歩道に入り、ガラスの割れたパチンコ店に身を潜める。  すると、けたたましいディーゼルエンジンの音が接近してくるのに気づいた。  路上を振りかえったとき、美由紀はびくっとした。  96式装甲車がゆっくりとこちらに近づいてくる。八輪のタイヤ、戦車のような装甲板を備えた車体、上部には重機関銃。フロント部分、右舷《うげん》の窓から運転手の顔がわずかに覗《のぞ》いている。  あの白人の男だった。やはり彼もメフィスト・コンサルティングの一員だったのだ。  ポアは装甲車に飛び乗ると、キューポラを備えた銃手席におさまった。  すかさず催涙弾が発射され、パチンコ店のなかに煙が漂いだした。  まずい。美由紀は店を飛びだし、商店街を疾走した。  けたたましい重機関銃の掃射音とともに、店舗は次々と小爆発を起こして破壊されていく。  弾幕のなかを美由紀は駆け抜けた。ここで死ぬわけにはいかない。美由紀は唇を噛《か》んだ。  あれが西之原夕子だとわかったいま、なんとしてもメフィストの魔手から救いださねばならない。 [#改ページ]   ビジネス・パートナー  幸太郎は麗香を連れて雑居ビル内の事務所に戻った。  麗香はすぐさま幸太郎の手を振りほどくと、つかつかと室内に歩を進めていった。 「みんな出てって!」麗香は怒鳴った。「ほら、さっさと荷物をまとめて出るのよ。チェックアウトの時間。二度と来ないで!」  ここで一夜を明かした十人の男女が、怯《おび》えたようすで起きあがり、まだ寝ぼけた顔のまま戸口に駆けていく。  外からは、あろうことか機関銃の音が響いていた。なにが起きているのか知りたいが、窓辺に近づくなといわれた。まるで中東の戦闘地域のような街角。ここが大久保通り付近だなんて信じられない。  廃墟のような室内で、麗香は疲れたように事務用机に寄りかかった。 「あのう」幸太郎はいった。「京城さん……」 「黙って!」  しんと静まりかえった室内。  依然として外からは、戦場のような騒音が流れこんでくる。  このまま沈黙しているわけにもいかなかった。  幸太郎は話しかけた。「西之原夕子ってのが、ほんとの名前なの?」 「……そうよ」と夕子はぼそりと告げた。 「どうして本名を名乗らないんだ?」  ふっと夕子は苦笑に似た笑いを浮かべた。「どうしてって? あなた西之原夕子って名前、知らないの? 新聞とか読まないわけ? 長いこと失業者だったんならしょうがないか。わたし、警察に指名手配くらってるの。詐欺とか窃盗、四十八の容疑で」  幸太郎は面食らった。「し、指名手配……」 「警察も馬鹿の集まりよね。たかがあれしきの地震で、わたしに逃走を許したまま追っても来ないなんて。西之原夕子だって知ったら、死んでも放さなかっただろうにね。もちろん警察官としての使命とかそんなもんじゃなく、手柄になるからっていう理由で」 「だけど……なぜなんだ? 顔と名前を変えたんなら、どこか遠くにでも逃げればいいじゃないか。国外に逃亡できるかどうかはわからないけど、東京にいるよりは……」 「外国になら行ったっての」夕子は机の引き出しを開けて、雑誌を取りだした。投げて寄越しながら、夕子は告げた。「それ、半年前の雑誌」 �タイム�誌、それも英語版だった。  表紙を飾っているのはパーティー・ドレス姿の男女だ。  男性のほうは、有名なハリウッドの二枚目俳優、トム・スレーターだった。  その彼に寄り添うように立つ女性のほうは……。 「まじかよ!?」幸太郎は愕然《がくぜん》とした。「これ、きみだよな?」 「そ。さっき外で話題になってたジェニファー・レインさんの紹介でさ。ビバリーヒルズにある彼の豪邸にも招待されたし、しばらくは付き合ってたっていえるのかな」 「すごいじゃないか」 「それが、そうでもないの。ハリウッドスターもさ、しょせん人よね。あの男、一緒に食事したとき、わたしの前で歯カスをほじりやがったの。酔っ払うと身勝手になるし、嘘もつくしね。インタビューのカメラの前でだけニコニコして、リハーサルですでにインタビュアーが喋《しやべ》ったことを、本番ではまるで初めて聞いたかのような顔をして、受け答えするわけよ」 「それはタレントとしては普通だと思うけどな……」 「トムはそれじゃ駄目なの。でもそのとき、思ったの。あー、わたしの思い描いていたトム・スレーターは、作られた幻想だったんだなって。この男が容姿を提供し、喋る言葉は誰か作家が考えて、衣装はスタイリストが、映画のイメージは製作者が……って感じで、大勢の人間が持ち寄ったものでひとつの架空のキャラこしらえて、世界じゅうの女を騙《だま》してるんだなって」 「まあ……わからないでもないけどね。だますというよりは仕事だろ? みんなに夢を売ってるわけだし……」 「その夢ってなによ? トムっていう、ありえない理想の男性がこの世にいると信じたうえで、彼といつかは結婚できるかもしれないっていう夢? 永遠にかなわないから、ファンは永久に離れないって? ふざけた話じゃん。このわたしの人生をどう思ってるっての? アメリカのハリウッド、あるいはビバリーヒルズに、本物の夢があると信じさせられてたわたしはどうすりゃいいっての? 詐欺じゃんか、そんなの」 「今度は韓流にでも乗り換えたら?」 「馬鹿にしないでよ。でもさー……気づいてみたら同じだったんだよね。あんな長髪にメガネ、マフラーを首に巻いてインチキくさい笑いを浮かべている韓国人男に惚《ほ》れて、キャーキャーいってるオバサンたちを、なんて愚かなんだろと蔑《さげす》んだ目で見てたけどさー。対象が距離的に遠いところにいるっていうだけで、騙されてるのは同じだったわけよ。金|儲《もう》けのために人々を欺くなんてね。許しがたい暴挙よ」  詐欺を許しがたい暴挙と夕子は断じた。だが彼女自身、山ほどの詐欺容疑で指名手配を受けているというではないか。 「ねえ、ええと、西之原さん」 「夕子って呼んでよ。あ、勘違いしないでよ。親しいからじゃないの。苗字《みようじ》で呼んでくるのは官憲の手先が多いからさ。思わずびくっとして、身構えちゃうから」 「わかったよ、じゃあ夕子さん。せっかくだから、もっと現実的に生きてみちゃどうかな。夢見がちな性格だってことはわかるんだけど……」  こういう物言いをすれば、夕子がまた怒りだすことは予測がついていた。  ふくれっ面をして、幸太郎を蔑むような言葉をまくしたてて、自分がいかに素晴らしいかを説き始めるに違いない。  そうわかっていても、幸太郎はあえて夕子にそうしてほしいと感じていた。彼女の暴言が平気になったわけではないが、いつもの彼女の調子を取り戻してほしかった。どこか落ちこんでいるような彼女は、彼女らしくない。  だが夕子の反応は静かなものだった。  夕子はつぶやくようにいった。「わたし、クルマの免許持っていないって話、したっけ」 「ああ。聞いたよ。教習所を辞めちゃったって」 「学科のほうは、単位をぜんぶ取得したんだけどね……。実習のほうはいちども受けなかった。シミュレーターで説明を受けて、次はいよいよ本当に配車を受けてクルマに乗るっていう状況で……。でもどうしても、授業を受ける気になれなかった」 「どうして?」 「クルマを運転するためには、自分が変わらなきゃいけないと気づかされたから。誰に言われたわけでもなく、わたし自身が悟ったことなんだけどね。路上にでたら、自分はこの世にたくさんある車両のひとつを操るだけの存在でしかないことを、意識しなければいけない。前を走るクルマや、後ろを走るクルマのドライバーと、まったく同じ立場。同等。みんなで作りだした流れを乱さないように走って、互いに間隔をとり、ゆずりあい、ルールを守って運転しなきゃならない……」 「そりゃそうだよ。無茶な運転をするより楽さ」 「あなたにとってはそうかもね。でもわたしには、衝撃的だったの。それまでわたしは、事実がどうだろうと、自分を中心にしてものを考えるのが当然と思ってた。わたしは他人に成り変わることはできないんだし、わたしの目で世界を見るっていう視点は一生変わらない。ものを考えるのもわたしだけ。他人が考えていることなんて、外側からしかわからない。だからすべては自分の主観、わたしひとりがまともな人間で、周りはすべて映像と同じだった。極端な話、自分だけが特別だと信じようと思えば、いくらでも信じられたのよ。自分がルールになってしまえば、批判することは誰にもできないんだから。自分ひとりだけは永遠に事故に遭わないとか、ひょっとしたら不老不死かもしれない、明日にでもハリウッドスターが自宅のドアを叩《たた》いて会いに来るもしれない、億万長者がいきなりわたしを名指しで相続人に選んでくれるかもしれない……なんて、いくらでも希望を持つことができた」 「それって、夢想の殻に閉じこもるってことじゃないのか?」 「さあ。なんとでも呼んでくれていいわよ。でも、クルマの免許を取りにいったとき、その考えを捨てなきゃならないとわかった。自分の観念だけを是とするルールでは、たちまち事故が起きる。それ以前に、クルマってものが自由に走ってくれない……。わたしに言わせれば、いうことをきいてくれないクルマのほうが駄目なのに、そういう考えじゃ運転は不可能。他人にも意志があって、自分はその大勢のなかのひとりでしかなくて、事故を起こす危険がいつもあって、そして死ぬ可能性もあると気づいて……。耐えられなくなった。だからわたし、クルマの運転ってもの自体、わたしの人生から閉めだすことにした。考えないことにしたの」 「けどさ、やっぱりそれは自分の心を世間から隔離しただけで、事実は何も変わってないわけだろ? この世にはクルマもあるし、運転って行為もあるわけだし。……きみひとりが逃げただけじゃないのか?」 「逃げたわけじゃないって。わたし、そういうのを認めないっていうだけ。自分が大勢のなかのひとりだなんて、そんなの受けいれられない。そんなの認めちゃったら……そこいらの人と同じように病気になることもあるし、事故に遭うこともあるし、死ぬこともあるってことでしょ? 将来に希望を持っていたのに、果たされずに終わることもあるってことでしょ?」 「それが事実なんだけど……」 「わたしにとっては違うの! 世の中はそんなふうに、わたしの個性を抹殺して集団にあわせることを強いてくる。だから反撃してやるだけのこと。目には目をってやつかもね。どうせろくでもない連中が、うたかたの人生にわずかな贅沢《ぜいたく》に興じるための金なんて、奪ったところでたいした罪にならない。わたしの癒《いや》されない気持ち、心の傷のほうがどんなに深いか。……どうせ誰にもわかりゃしないわ」 「……だから人を騙しても罪悪感がないってことかい? でもさ、きみはいちどトム・スレーターと付き合ったんだろう? そこにも失望が待ってたとはいえ、帰国してこんなふうに日常にどっぷり漬かった生活を送るよりはマシだったんじゃないか?」 「それは……そうだったんだよね。わたし、あとから失ったものに気づいた。トムのふがいなさに腹を立てて、勝手に豪邸を飛びだして、帰国しちゃったんだけど……。あっちの世界のほうがまだ可能性があったかな、って。ジェニファー・レインさんがわたしに何を望んでいたか、結局聞けずじまいだったけど、こんなつまんない国に帰ってくるよりは数段上だったんじゃないかなって……。でもそれ以降、向こうからの接触もない。だからわたし、行動を起こすことにしたの」 「それがこの会社ってわけか。この世のすべてを超越した取り引きをしたい、その言葉はジェニファーさんとやらに向けられたものだったんだな?」 「ええ、そうよ。向こうは世間の常識の通用しない領域にいる人たちだもの。そんじょそこいらの社会人らと接触を持ったところで、あの領域にはアプローチできないわよ」 「なら、なんらかの方法でメッセージだけ伝えればいいじゃないか。きみをジェニファーさんのところに戻してくれって、そこだけ訴えればいいだろ? なにも会社を作って、社長になることはなかったんじゃないか?」 「いいえ! ジェニファー・レインさんはたぶん何かの企業の社長か、それに類する立場にある人なの。やっぱさー、向こうにただ雇われるより、こっちも法人を持ってて、ビジネス・パートナーになったほうが対等って感じがするじゃん。っていうか、見下されるのは嫌なんだよね。いまさら出戻りみたいに扱われるのもむかつくし。だから部下を引き連れて、会社を組織したの。やっておいてよかった。あのポアがジェニファー・レインさんの手下だとはね。ついに接触してきた。地震が起きたときにそうだと思ったけど、これで確実になった。会社を作っておいてよかった!」  ようやく夕子は調子を取り戻した。だが幸太郎はただひたすら呆気《あつけ》にとられ、黙りこむしかなかった。  どこまでいっても、西之原夕子は自分が中心だ。彼女は、みずから学ぶ機会を蹴ってまで、自分の世界に固執している。  それゆえに、悪魔に魂を売ろうとしている。  あのメフィストという悪魔に。 [#改ページ]   崩落  美由紀は装甲車の重機関銃からの掃射を躱《かわ》しながら、大久保通りから路地へと駆けこんだ。  道幅は二メートルていど、左右はビルの外壁だった。ここなら、車幅二メートル半の96式装甲車は追ってはこれない。  ところが、背後から迫りくる轟音《ごうおん》はいっこうに消えない。  振りかえったとき、美由紀は衝撃を受けた。  装甲車は路地に入り、両脇のビルを破壊しながら突き進んでくる。砕かれたビルの外壁は粉末状になって飛び散り、鉄骨や支柱は押し倒され、ガス管に点火して爆発が起きる。  熱を帯びた爆風に吹き飛ばされ、美由紀は前のめりにつんのめった。  両手を擦りむき、激痛が走る。  背後から装甲車が迫った。  見あげると、その巨体はすでに目と鼻の先に接近していた。  美由紀は仰向けになり、わずかに背を浮かすと、機関銃の掃射を受ける前にみずから装甲車の下に滑りこんだ。  装甲車は荒地を難なく進めるよう車高が高めになっている。ひとりなら、ぎりぎり潜りこめるはずだ。  通過する装甲車の下で寝そべることは、決して心地のよいものではなかった。エンジン音は鼓膜が破れるかと思えるほどの騒音となって響き、顔がときおり装甲車の底部に接触し、擦《こす》れそうになる。そのたび後頭部を地面に押しつけるようにして、わずかに空間をあけた。ほんの数秒でも摩擦が起きたら、肌が引き剥《は》がされてしまうだろう。  巨大な鉄の塊は美由紀の上を通過していった。  すぐさま美由紀は跳ね起きて、装甲車の後部から車体の上に飛び乗った。  ポアはすぐさま振り向いたが、重機関銃をこちらに向けようとして、それが構造上不可能だと気づくに至るまで、一秒ほどまごついた。  その隙に美由紀は突進してポアの首すじに蹴りを入れた。  打撃に手ごたえはあったが、ポアはものともせず銃手席から跳躍し、ハイキックからかかと落としを見舞ってきた。  美由紀は身を引いて躱したが、格闘には向かない足場だった。  振動する車体で足を滑らせ、落下しそうになった。  ポアが隙を衝《つ》こうと向かってきたが、美由紀はすぐに体勢を立て直した。  美由紀が合気道の入り身突きで反撃にでると、ポアは脛《すね》を上げて防御し、ムエタイの蹴りの連打を放ってくる。一瞬も気の抜けないすさまじい打ち合いとともに、全身に痺《しび》れるような痛みが走る。感覚が麻痺《まひ》し、執念だけが闘争心を支える。  と、頭上でなにかが動いたのを感じとった。  ポアも同じ感覚を持ったらしく、わずかに視線が上に泳いだ。  美由紀はすかさずポアの胸部を蹴り飛ばした。  ポアが仰向けに転倒すると同時に、美由紀も後方に転がって距離を置いた。  ようやく頭上に目を向けたとき、美由紀は信じられない光景をまのあたりにした。  路地の両脇に建つビルが谷間に向かって傾き、崩落してくる。地震で耐久度が弱まっていたところに、装甲車によって一階部分の外壁を削りとられたせいだった。  直後、外壁が大小の岩となって轟音とともに降り注いできた。  美由紀は装甲車から飛び降り、路地を駆けだした。  目の前に数トンとおぼしき巨大なコンクリートの塊が落下してきた。  一瞬ひやりとして足がすくんだが、立ちどまっていたのでは瓦礫《がれき》の下敷きになる。  かといって、前進したがゆえに破片の直撃を受けてしまう可能性もある。  片側の壁に身体をこすりつけるようにしながら、美由紀は路地を疾走した。  背中を何度か、破片がかすめていった。  あと五メートルほどで大通りにでる。  歯を食いしばって美由紀は走った。  三メートル、二メートル、一メートル……。  歩道にダイブするように頭から飛びだしていく。  背後では爆発のように噴煙が吹きあげられ、落雷を思わせる音とともに地響きが襲った。  砂埃《すなぼこり》で辺りは霧のように見通しがきかなくなっていた。  美由紀は上半身を起こし、振りかえった。  静かだった。  ふたつの古いビルと路地があったはずの場所は、いまや塵芥《じんかい》の山と化し、原形を留《とど》めるものはなにもなかった。  装甲車はあの下か。脱出は不可能だったろう。  そう思ったとき、低く轟《とどろ》くエンジン音を耳にした。  美由紀の脇をかすめ飛ぶようにして、大通りをバイクが駆け抜けていった。  ハーレーダビッドソンの大型バイク、乗っているのは長い髪をなびかせたポアだった。  あの崩落から逃れるとは。  しかも彼女は、美由紀に目もくれずにどこかを目指して疾走していった。  夕子のもとに向かう気だ。  痺れる全身に力をこめ、美由紀は立ちあがった。  重い足をひきずって、ポアの後を追って走りだす。  見過ごせない。  あの女がメフィストから派遣されたのなら、目的は夕子ひとりだけだ。一緒にいる幸太郎の身を守る意志は皆無だろう。  というより、ポアの正体を知る身になった彼を、生かしておくはずもない。 [#改ページ]   歴史の創造  西之原夕子は事務所の机に頬杖《ほおづえ》をついていた。  さっきから外が騒々しい。ポアが怪獣のごとく暴れまわっているようだった。岬美由紀を追いまわし、駆除しようとしているに違いない。  いい気味。あんな女、死んでくれたほうが胸がすっとする。  ただし、気分はいっこうに昂揚《こうよう》しなかった。  楽しくない。  ポアはジェニファー・レインの送りこんできた部下のようだったが、どうしてわたしにその事実を伏せていたのか。わたしを監視し、値踏みするつもりだったのか。  ポアも状況によっては、正体を明かさないまま姿を消すことも考えていたのだろうか。  騙《だま》されるのはなにより嫌だ。馬鹿にされているようで腹が立つ。 「なあ」と幸太郎が声をかけてきた。「いまからでも遅くはないよ。警察に行ってさ……。そのう、自首っていうか……」  思わずため息が漏れる。「幸太郎、あんた馬鹿? 容疑者が特定されてるときは自首じゃなくて、出頭になるの。たいして減刑にもつながんないし」 「それでもさ……ずっとこんな場所に隠れているわけにもいかないし……」 「だから、この世の常識を超越した領域に行くって言ってるでしょ」 「どこなんだよ、それは」 「さあ。場所じゃなくて、立場っていうか、まあ何が待っているのかよく判らないんだけどね。トム・スレーターの恋人になるのはもううんざりだから、ほかになにか希望ださなきゃ。なにがいいかなー」 「きみはメフィ……っていうか、ポアさんの仲間に迎えられるかもしれないけど、俺のほうはどうなる?」  夕子は黙りこんだ。  幸太郎の今後。考えたこともなかった。 「さあ……ね。あなたは別に、特筆するに価する才能もないみたいだし、要らないんじゃない?」 「ちょっと待てよ。そんな無責任な……」  そのとき、戸口に足音がした。  全身、砂埃で真っ白になったポアが、息を弾ませながら入室してきた。  頬を擦りむき、目は血走り、あたかも戦場から帰ってきた兵士のようでもあった。 「お聞きしました」ポアはオートマチック式の拳銃《けんじゆう》をとりだすと、その銃口を幸太郎に向けた。「あなたがなんらかの意図があって選抜した人材かと思っていましたが、違うようですね。ここで処分します」  幸太郎は恐怖のいろを浮かべ、身をちぢこませた。「な、なんだって? ちょっと。ポアさん、冗談きついよ」 「そうよ」夕子はあわてる自分の声をきいた。「なにも殺すことないんじゃない?」  ポアは、心外だというような目で夕子を見やった。「おや。グレート・ジェニファー・レイン女史から伺っていたあなたの人格では、他者を踏み台にして使い捨てることになんの躊躇《ちゆうちよ》もしめさないはずですが。お心変わりでも?」  夕子は戸惑いとともに押し黙った。  幸太郎が焦燥のいろを浮かべていう。「か、変わったと言ってくれよ、京城さん、じゃなくて、夕子さん。こんなのってヘンだよ。人を撃つとかそんなことさせちゃいけないよ。花火だって人に向けちゃいけないのに、こんな物騒なものを向けてくるなんて……」 「いいから黙って!」と夕子は怒鳴った。  しんと静まりかえった室内。夕子は、怯《おび》えきった幸太郎を見つめていた。  こんな男、関係ない。  わたしはいままで大勢の男を切り捨ててきた。利用価値がなくなったら、それまでだ。  向こうがどれだけすがりついてきても、決して振りかえろうとはしなかった。  罪悪感もない。騙されるほうが悪い、それが世の中だ。  でもいま、幸太郎は殺されようとしている。  命まで奪うなんて、考えたこともなかった。  それでも、切り捨てた男が生きようが死のうが、いっこうにかまわなかったはずだ。  いまになって、どうしてこんなに迷いが生じるのだろう。  いや、迷っているわけではない。わたしの気持ちははっきりしている。  わたしは……。  そのとき、窓からなにかが飛びこんできたのを夕子は見た。  風のように迅速に、それは幸太郎のもとへと疾走した。  豹《ひよう》を思わすような身のこなし。  一瞬のちに、岬美由紀だとわかった。  ポアは美由紀に向けて発砲したが、着弾は一瞬ずつ遅れていた。美由紀が通過した直後に、その向こうの事務机が弾《はじ》け飛び、書類が宙に舞った。  美由紀は幸太郎を抱きかかえるようにして、戸口に向かって突進した。  なおもポアがその背後に銃弾を浴びせようとする。  数発発砲、狙いは逸《そ》れた。  ようやく仕留められるかというとき、カチリという鈍い音がした。  弾切れのようだった。  拳銃を投げ捨てて、ポアはふたりを追うべく戸口を駆けだそうとしている。  とっさに夕子は声をかけた。「ポア!」  ポアは足をとめ、振りかえった。 「そのう」夕子はいった。「わたしを……独りにしていいの? あなたはわたしを守りに来たんでしょ」  しばし黙りこくっていたポアは、真顔でかしこまって頭《こうべ》を垂れた。「仰せの通りに」  そんなポアのようすを見て、ようやく夕子はほっとため息をついた。  いいところに岬美由紀が飛びこんできてくれた。  あのままだったら、幸太郎は……。  どこか訝《いぶか》しそうなポアの視線に気づき、夕子はそ知らぬ顔をつとめた。「と、とにかく、あなたたちが何を望んでるのか知らないけどさ。わたしに来てほしかったら、あんまり騒動を大きくしないでくれる? わたし、騒がしいの嫌いなんだよね。わたしのために争わないでよ」  ポアは夕子をじっと見返していたが、机につかつかと向かうと、引き出しからマイクを取りだした。  そんなものが事務机のなかに用意されていたとは意外だったが、ポアは無表情でそのマイクを夕子に差しだしてきた。 「なにこれ?」と夕子はきいた。 「ここにはカラオケの設備もあります。気分が乗ったときには、歌をお歌いになるそうですから、ご用意しておきました」  そういってポアが指を鳴らすと、どういう仕組みになっているのかBGMが鳴りだした。  なんとも古めかしいイントロだった。  ほどなく河合奈保子の『けんかをやめて』という曲だと気づく。 「けんかをやめてー、二人を止めてー……」少しばかり歌ったあと、夕子は嫌気がさしてマイクを投げだした。「アホらし。やめてよ」  もういちどポアが指を鳴らし、BGMはやんだ。 「お気に召しませんか?」とポアがきいた。 「ええ。全然」  それよりも気になることがある。ここにはスピーカーもなければカラオケの機器もない。どこから音が聞こえてきたのだろう。指を鳴らしてスイッチをオンにできる仕組みなのだろうか。  考えあぐねていると、ポアが夕子の心のなかを見透かしたようにいった。「わたしどもはあらゆる物理的トリックで環境を変異させ、そこにいる対象人物の心理を操作します。どのような準備も可能であり、しかも物証を残しません」 「きのうの地震と同じように?」 「そのとおりです」 「まあトム・スレーターと引き合わせてくれた時点で、あなたたちに不可能がないってのはわかってるけどさー。でも、なんかつまんなかったんだよねー。で、帰国しちゃったわけだし。やっぱ、普通に生活してるほうがましって気分」 「ご冗談を。あなたは戻りたいと思っておられる。ジェニファー・レイン女史のもとに。そうでしょう?」  夕子は内心いらいらしていた。  ポアも岬美由紀と同じように、こちらの思考を読んでいるかのような態度をとる。 「西之原様」とポアがいった。「レイン女史があなたに対し何をお望みなのか、そもそもわたしたちが何を目的としているのか、興味がおありでしょう。わたしたちは人類の歴史を作っているのです」 「歴史……?」夕子は苦笑してみせた。「あいにく、地理歴史の成績って最悪だったんだよね。南フランスで発見された人類化石は何人《なにじん》か、って問題があってさ。正解はクロマニヨン人だっけ? でもわたし、何人《なんにん》かって読んじゃって、百人って答えたんだよねー」 「ウィットに富んだ秀逸なお答えです」 「……無理に褒めようとしてない?」 「いいえ」とポアは真剣なまなざしで夕子を見据えた。「過去の歴史など学ぶ必要はありません。歴史は、わたしたちの手で創造するのですから」 [#改ページ]   症例  幸太郎は本郷にある臨床心理士会事務局の待合室で、身を硬くして座っていた。  平日の昼間、それも大規模な地震があった翌日だけに、臨床心理士は出払っているらしく、事務局には美由紀のほかには舎利弗浩輔という男がいるだけだった。  そのふたりの専門家による説明に、幸太郎はまたしても面食らわざるをえなかった。 「自己愛性人格障害……ですか?」と幸太郎はいった。 「ええ」美由紀はうなずいた。「それが西之原夕子の症状。かつて精神科を受診したときに、そう診断されてる」 「ってことは、病気ってことですか?」 「いうなればそうね。正常な精神状態ではないという意味で。だから、幸太郎さん。彼女はあなたが期待したような女性とは違うの」 「き、期待って?」 「わがままで自己中だけど、すなおで自分に正直で可愛いところがある女。率直にいって涼宮ハルヒを期待してたかもしれないけど、まるで異なるってこと」  図星を突かれ、幸太郎は思わず息が詰まりそうになった。 「ど、どうして……そんな……嫌だなぁ、そんなこと想像してみたこともないよ」 「メフィストのせいで一見、非日常的に見える事態が頻発したため、一層ハルヒっぽさを感じて、はまりこんだ」 「な、なんのことやら……。だいたい、なんですか、涼宮って……アイドル歌手かなにかですか?」  美由紀の冷ややかな目が向けられる。  千里眼のまなざし。脳のなかをスキャンして、あらゆる隠しごとを見抜いてしまうかのような鋭い目つき。  幸太郎は心臓が破裂しそうだった。  と、舎利弗がにこりとしていった。「『驚愕《きようがく》』もう読んだ?」 「はい、もう……」思わず返事をしてしまい、幸太郎は自分を呪った。「あ、やばい……」  ため息をついて美由紀が告げた。「べつに隠すようなことでもないと思うけど」 「いや、でもね……。世間の目は冷たいからさ。三十過ぎて秋葉系オタクじゃ就職できないのも無理ないって、たちまち呆《あき》れられちゃうし……」 「そんなことないわよ。わたしの知り合いに、外務省勤務でその種の趣味の人もいるし。現にこうして臨床心理士会にも……」と美由紀は舎利弗に目を向けた。  舎利弗はとぼけた顔で肩をすくめた。「『分裂』より『驚愕』のほうがよかった」 「はあ、そうですね」反射的に乗ってしまい、幸太郎はまた自己嫌悪にとらわれた。 「それに」と美由紀はいった。「フィクションの世界に魅せられて、現実でもそれを求めることは必ずしも間違っていない……どころか、むしろ推奨される生き方なのよ。人は子供のころ、親がきかせてくれる童話から世を学び、実体験と対比させながら人生を理解していく。初めに物語があって、そこに理想をみいだし、世間のどこに理想を満たす現実があるかを探求する……。聖書も物語だしね。ある意味で、人が生きていくということは、そういうことだと思うの」 「はあ……そんな崇高なことかなぁ。俺はべつにハルヒとかにそこまでハマってはいないし、まして現実にそういう女と出会いたいと本気で思ってたわけじゃ……」  舎利弗が口をはさんだ。「ツンデレ喫茶に勤めたがっていたのに?」  またもや幸太郎は、首を絞めあげられたような気がして咳《せき》こんだ。「どうして、そ、そんなことを……」 「わかるよ。ツンデレ喫茶の店長になりたいと言ったんじゃあまりに趣味性が強すぎるんで、少しばかり一般的にメイド喫茶と言ってみたんだろう? 牧野先生からの報告で、すぐにぴんと来たよ」  美由紀は訝《いぶか》しそうな顔で舎利弗にきいた。「ツンデレ喫茶って?」 「あのですね」幸太郎は声高にいった。「舎利弗先生はそう仰いますが、俺は決してそんな変わった性癖の持ち主では……」  ところが、美由紀は片手をあげて幸太郎を制すると、穏やかな口調で告げてきた。「弁明しなくても、あなたの嗜好《しこう》が舎利弗先生の言葉どおりだってことはわかるわ」 「な……なぜ」 「嘘をついているかどうかだけは、簡単に見抜けるの。わたしにわからなかったのは、ツンデレ……だっけ? その言葉の意味だけ」  舎利弗がいった。「美由紀。きみのことだろ」 「え? 何?」 「この美由紀の態度に不快感を覚えないんだから、幸太郎さんはやっぱり充分にツンデレ萌《も》えってわけだ」  ぐうの音もでない。  幸太郎はすっかりやりこめられた気分でつぶやいた。「はい、仰せの通りで……」  美由紀は真顔になった。「よくわからないけど、女性のわがままを受けいれる心がまえがあるなんて、とても紳士的よね。けれど、西之原夕子はそんな心につけこんでくる。あなたの理想とは相反する存在だってこと」 「そうですか。でも、どうもわからないんです。彼女はたしかに変わってはいましたけど、病んでいるようにはみえなかった。それに、自己愛っていえば、誰にでもあると思うんだけど」 「ああ」舎利弗がうなずいた。「もちろんだよ。自分を愛するというのは健全な心の発達のために必要不可欠だ。問題は、それが病的なまでに膨れあがって、自分に誇大感を持つようになる場合のことだ。それが自己愛性人格障害だよ」 「誇大感……」 「そう」美由紀は幸太郎をじっと見つめた。「ありのままの自分を愛するのではなく、優越している自分自身を夢想し、それが現実化しないと気が済まないという欲求に絶えず駆られているところがあるの。問いかけられもしないのに自分の話ばかりしたがったり、話題がほかに移っても強引に自分のことを喋《しやべ》りつづけたり、高慢で横柄な態度にその兆候が表れたりする。他人に対する共感の念が薄いために、他人を利用することになんの躊躇《ちゆうちよ》もしめさない。むしろ、周りのほうが不当に自分を利用したがっていて、自分はその被害者だという意識が強かったりするの」 「ああ……それはたしかに、彼女に当てはまるかも」 「自分が特別な存在でなければならず、そういう自分にしか興味が持てない。でもそれは、ありのままの自分ではないと薄々感じている。だからまず自分を欺くために、他人の悪口を言ったりして徹底的に卑下することで、己の優越感を満たす。うまくいかないことがあっても、自分は特別な人間にしか理解されないと思いこんで、相手を責めることで不満を浄化してしまう」 「けれど、それならただ性格の悪い女というだけで、犯罪者にはなりえないんじゃないかな?」 「ええ、自己愛性人格障害がそのまま犯罪につながるわけではないの。でも、虚栄心を満たすために嘘をつきやすく、それをご都合主義で正当化してしまうところがある。罪悪感はないわけじゃないんだけど、被害者意識があるせいですぐ払拭《ふつしよく》されてしまう。その反面、自分が批判されると過剰に反応するため、トラブルも招きやすい」  舎利弗が壁の本棚に近づき、一冊の分厚い本を引き抜いた。そのページを繰りながら、舎利弗はいった。「アメリカ精神医学会は、明確な基準を定めているよ。自分の才能を誇張したり、充分な業績がないにもかかわらず優れていると認められることを期待する。限りない成功、権力、美意識、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。自分が特別でユニークな存在であり、ほかの特別または地位の高い人や団体からしか理解されないと信じてる。また、自分が関係を持つのはそのような人もしくは団体に限るとも考えてる。過剰な賞賛を求め、特権意識を持ち、自分の期待に沿うような取り計らいが自動的になされることを期待する。目的達成のためには手段を選ばない。他人の気持ちおよび欲求には気づかないか、気づいていたとしても認めない。しばしば他人に嫉妬《しつと》し、と同時に自分が嫉妬されていると思いこんだりもする」  幸太郎は開いた口がふさがらない思いだった。  読みあげられた症例は、ひとつ残らず西之原夕子に当てはまっている。 「なるほど」幸太郎はつぶやきを漏らした。「ぴったりかもしれない……」 「以前、西之原夕子は放火事件を起こしたときに、美由紀と知り合った。美由紀が臨床心理士だと気づいた彼女は当初、従順な態度をしめした。それは美由紀が有名人だったからなんだ。千里眼だなんて呼ばれている岬美由紀と付き合うことは、西之原夕子の特権意識を満たす。こいつは自己愛性人格障害の顕著な特徴でもあってね。この症状の人間はたいてい、マスコミで顔や名の売れた人や権威性の高い人の世話になりたがる。ただし、相手が自分の意にそうような結果をだしてくれないと、たちまち牙《きば》を剥《む》きはじめる。敵視して、二度と心を開こうとはしないんだ」  美由紀が深刻そうにうなずいた。「わたしに対してもそうだった……。西之原夕子は、わたしに救われなかったことに腹を立てて、いまではおそらく復讐《ふくしゆう》心さえ燃やしてる」  幸太郎はきいた。「救わなかったの、彼女を?」 「いいえ。ただ、ほかに優先せねばならない事態があった。彼女には少し待ってもらうしかなかった。けれども、彼女にとってそれは理解しがたいことだったようね。真っ先に自分を救おうとしない臨床心理士なんて敵と同じ、すぐにそうみなしたのよ」 「……夕子さんがポアって呼んでた韓国人だけど……それから、ジェニファー・レインっていう女性についても……。警察に通報しておくべきじゃないかな」 「そうだな」舎利弗がうなずいた。「美由紀、警察には友達が大勢いるんだろう? 大久保通りでひと騒ぎ起こしておいて、なんの連絡もしないんじゃまずいだろう。きみの古巣の防衛省にも報告しておいたほうがいい。装甲車だっけ、瓦礫《がれき》の下敷きになっちゃったんだろ?」  ふいにそわそわしだした美由紀がいった。「ええ、わかってる。舎利弗先生、そのう、クレクレタコラのDVD、貸してもらう約束だったんだけど」 「あん? ああ、僕の机にワンセットあるけど」 「いま貸してくれない?」 「いいけど……どうして?」 「ええと、幸太郎さんも観たいだろうし」  幸太郎は面食らって、どういう意味なのか尋ねようとしたが、美由紀が目でそれを制した。 「へえ」舎利弗は上機嫌にいった。「きみも興味があるんだ。ファミリー劇場の放送じゃ欠番のエピソードがあったんだけど、DVDは全話揃ってるよ。用意してくる」  舎利弗が立ち去っていくと、美由紀はほっとしたような顔をした。  思わず幸太郎は笑った。「他人の嘘が見抜けるのに、自分の嘘は下手だね」 「まあね。嘘をつくのは苦手なの。いつもバレバレだっていわれるけど、舎利弗先生は騙《だま》されやすいから」 「彼に聞かせたくない話でもあるの?」 「そうよ」美由紀は真剣な面持ちで、声をひそめて告げた。「さっきの騒動、警察には通報しないわ。その必要もない」 「どうして?」 「メフィスト・コンサルティングが絡んでいるから」 「世を超越した秘密結社だからってこと?」 「結社じゃないけど、似て非なるものね。世界的規模の勢力を有していて、一国の法律ていどじゃ裁けないのは確か」 「歴史をつくるとか言ってたけど……」 「手のこんだトリックで人を計画的に煽動《せんどう》するわけだから、詐欺師の集まりと同じよ。西之原夕子はその一員にふさわしいとみなされた。わたしに敵愾心《てきがいしん》を抱いていることも評価されたのかも」 「向こうはかなり岬先生をライバル視してるみたいだよ? 恨んでいるっていうか」 「こっちもよ。何度となく酷《ひど》い目に遭わされてるから。でも、ジェニファー・レインって名前には聞き覚えがないけど……。さっきのあなたの話では、西之原夕子は整形後、トム・スレーターと話題のカップルにまで祭りあげられたわけよね? 特別待遇を受けたがる彼女にはぴったりの接待よね」 「でも西之原さんはトムに愛想をつかしたと言ってた」 「それがジェニファーっていう人には意外だったんでしょうね。だから帰国した夕子を監視しつづけた。一方、夕子のほうも再びジェニファーによる接待を望みだした。そこになにが待っているかを知るよしもなく……」 「岬先生。そのう、自己愛性人格障害だけど、なにが原因になっているんだろ?」 「幼いころに親が子の自立を促してくれないと、親への依存を持ったままになる。子は、そういう依存心をもてあそび従属させようとする親の支配に抵抗するけど、面と向かってはものがいえない。そんな状況下で、子供のほうは親を打ち負かす夢想に浸るようになる。空想によって立場が逆転した気分を味わおうとするのね。これが癖になると、自己愛性人格障害の芽生えになるといわれてる。己の誇大感によって他者を見下すことで、かろうじて自分のアイデンティティを保つ人間になっていく」  幼少の頃に端を発するわけか。責任が親にあるとするのなら、西之原夕子も被害者といえるわけだ。 「回復っていうか、治療は……?」 「困難といわざるをえないわね。人の心というものが白か黒かに割りきれるものではなく、グレーゾーンがほとんどで、しかもその領域が必ずしも裏切りや嘘を意味するものではないと説得する必要があるんだけど……。彼女が気を許せる身近な人間でないと無理ね」 「どんなタイプの人間ならそうなれるんだろう?」 「自己愛性人格障害の人が必要とするのは、マネージャーのように周りの世話を焼いてくれたり、無償のサポートを買ってでてくれる人。西之原夕子にとってはずっと兄がその役割を担っていたみたい」 「でもそのお兄さんは、冠摩《カンマ》の事件の主犯として逮捕されたんでしょ?」 「そう。だから彼女はいま天涯孤独の身……」  しんと静まりかえった待合室で、幸太郎は無言で考えにふけった。  俺は、なにを気にしているのだろう。  西之原夕子が付き合うべき女でないことがあきらかになり、事態は千里眼の岬美由紀や、メフィスト・コンサルティングなる組織まで登場して、到底人智の及ぶ範囲でない領域にまで拡大している。  もう一介の失業者、あるいはワーキングプアでしかない俺の手に負える範囲ではない。  けれども、なぜか終わった気がしない。いや、終わらせてはいけない、そんな妙な使命感が自分のなかに疼《うず》いている。  どうして放棄しないのだろう。  何かすべきことはないかと、思考をめぐらせているのはなぜだ。俺は何を望んでいるのだろう。  判然としない心とともに、幸太郎はつぶやいた。「このまま放ってはおけないよ。また大地震が起きるっていうし……」  美由紀はうなずいた。「人工地震を隠蔽《いんぺい》するために、再び地震を発生させることは充分に考えられるわね。まだ各地の地層や地質の調査も充分でないから、二度目の大地震が起きたら、一度目の地震の震源も特定しづらくなる。物証を残さないことがモットーのメフィストなら、充分ありえるでしょうね」 「本気で首都機能を壊滅させるみたいなこと言ってたけど……まさか冗談だよね? 地震保険で経費を回収するだなんて……」 「ありえるわよ。メフィストは過去にも日本と中国のあいだに戦争を引き起こそうと画策した経緯がある。そのときも日中両国の不動産に多額の保険をかけていて、準備段階の多大な支出を補おうとしたことも判明してるの」  なんてこった。幸太郎は背筋に冷たいものが走るのを感じていた。  この手の状況は漫画ではお馴染《なじ》みだが、現実のものとなったのでは破滅のときを待つ以外に手段がないではないか。ここには異次元からやってきた超生命体も、七つ集めれば都合よく願いがかなうアイテムも、魔王を倒せば部下がすべて死んでくれるという浅はかな設定もない。  目で見て、耳で聞く現実の世界。この世にはそれしかないのだ、幸太郎はいまさらのようにそう感じた。  夢想に逃避することは、現実の世に生きることを休止している時間にすぎず、決して別の世界に移り住めるわけではない。  そんな世の中が治安を失い、陰惨たる地獄と化したら……。個人の力では、どうすることもできない。そのまま生き、死んでいくだけだ。  ふいに、携帯電話が鳴った。幸太郎はびくっとした。  ポケットから電話を取りだして、応答する。「はい?」  意外な女の声が呼びかけてきた。「幸太郎?」 「に、西之原さん!?」  美由紀の表情が硬くなった。  電話の向こうで夕子は、いつもと変わらない陽気な声でいった。「幸太郎。明日午前九時、横浜みなとみらいにオロチまわしてきて。赤レンガ倉庫の駐車場で待ってるから」 「な……ちょっと。そんなの無理だよ。警察に追っかけられてるし、だいいちオロチは大久保通りに停めっぱなしだよ。クルマ取りにいったら、ポアさんに狙われる」 「ポアのことなら心配ないって。ちゃんと話はつけておいたからさ。じゃ、忘れずに来てよ」  それっきり、電話は切れた。  静寂のなか、夕子の声は美由紀の耳にも届いていたらしい。  美由紀はつぶやいた。「話をつけたってことは、ジェニファー・レインって人に再会する約束を交わしえたって意味ね」 「どうしよう……。指名手配犯とわかってて会いに行くなんて、馬鹿がやることのような気もするけど……」 「常識ではそうかもね。でもこの際、誘いに乗るべきかも」 「っていうと?」 「向こうにしてみれば、あなたがわたしに連れ去られたとわかってるはずなのに、連絡してきた。つまりジェニファー・レインの意志じゃなく、本人があなたに会いたがっているのよ。わたしに妨害されるリスクを承知のうえでね」 「僕に? どうして?」 「さあ。それを知るためにも、本人に会ってみるべきかもしれない」  幸太郎は重苦しい気分で頭を抱えた。  弱った。非日常的な女に気に入られることが、これほど心労につながるなんて。 [#改ページ]   幻の地下街  夜九時をまわった。  この時間になると、銀座四丁目交差点も人通りが少なくなる。高級ブランド品を扱う店が軒並み閉店するからだ。  夕子にとって銀座は、渋すぎて足を運ぶ機会のない場所のひとつだった。ブランドに興味はあっても、品揃えがしっくりこない。見るからに育ちのよさそうな人間が往来しているのも鼻持ちならなかった。  和光の時計台へと、ポアは夕子を誘《いざな》っていった。  ポアは立ちどまり、夕子に告げた。「グレート・ジェニファー・レイン女史は松屋銀座でのお買い物がお好みです。先日もロレックスのレディースウォッチを購入されました」 「ふうん。牛めしの松屋なら詳しいんだけどね。肉野菜|炒《いた》め定食がなかなか美味《おい》しいんだけど。わたしがなにをいいたいか判る?」 「ええ」ポアはにこりともせずにいった。「庶民に縁遠いセレブぶった態度がお気に召さない、そう仰りたいのでしょう。ご忠告しておきますが……」 「なによ」 「松屋の肉野菜炒め定食は八百六十六キロカロリーもあります。豚|生姜《しようが》焼定食なら七百二十二キロカロリーに抑えられますから、メフィスト・コンサルティングとしてはそちらを推奨します。豚汁一杯だけでも二百七十八キロカロリーもあることもお忘れなく」  夕子は沈黙せざるをえなかった。  大衆向け食堂から物置の品揃えまで、あらゆることに精通しているのはたしかなようだ。  それでも、本当に人類の歴史を動かしているという証明にはならない。というより、そのような突拍子もない話には、どこか胡散《うさん》臭さがついてまわる。  ジェニファーらが特殊な地位にいることはあきらかだが、歴史の操作が可能なほどの権限を有しているとは信じがたかった。  すると、ポアがまた夕子の心のなかを察したようにいった。「案ずることはありません。メフィスト・コンサルティング・グループ各社の特殊事業課がこの世の未来を担っているというのは、紛れもない事実なのですから」 「へえ。ねえちょっと、ポア」 「なんでしょうか」 「あなた、たびたびわたしの気持ちを見抜いているようなんだけど。テレパシーでも身につけてる?」 「表情や声のトーンから感情を推し量る技能を有しているというだけです。レイン女史もあなたの心は正確にお読みになられますから、真意と異なる返答は慎まれたほうがいいですよ」  嘘などつくなという警告。言葉は丁寧だが、いちいち遠まわしに強制力を発揮したがる。 「それで、歴史を作る人とこんなところで待ち合わせ?」 「いえ。いますぐにお連れします」  ポアがそう告げて、和光前の石畳の床を軽く靴のかかとでノックした。  いきなり、がくんと落下する衝撃が襲った。  夕子は悲鳴すらあげられなかった。  垂直の落下は唐突かつ急激なものだった。足場を失ったわけではない。踏みしめる石畳ごと、夕子とポアの周囲一メートル四方ほどがエレベーターのように下降したのだ。  足場は、夕子がバランスを崩さないていどに減速し、暗い地下で静止した。  直後に、吐き気のようなものがこみあげてきた。 「初回はやむをえません」ポアがいった。「慣性の法則によって、内臓がわずかに押しさげられます。嘔吐《おうと》感をともなうこともございます」 「ございますじゃなくて、現に気分悪いんだけど」 「息を大きく吸ってください」  いわれたとおりにしながら、頭上を見あげた。  地上への出入り口はすでに閉ざされ、天井は真っ暗だった。 「銀座の地下を掘りかえして、こんな場所造ったっての?」 「ここはいわゆる幻の地下街です。わたしたちが手を加えたのは、いましがた利用した油圧式の侵入路だけです」 「幻の……。ああ、東銀座方面につづく地下二階の通路だっけ? いちども使われたことなく閉鎖されてるとか」 「そうです。昭和に入り、消防法が改正された結果、地下街の末端には地上への出入り口を設けねばならなくなりました。この地下街にはそれがなかったので、放置されたままなのです」 「行く手はダンジョンにでもなってるの? 武器屋でロトの鎧《よろい》でも買ってこっかな」 「……ロトの鎧は防具屋だと思いますが」  いちいち冗談の通じない性格だ。  夕子は歩きだした。「魔法の鍵《かぎ》がなきゃ開かない扉とかないでしょうね。っていうか、化け物倒すぐらいの力あるなら扉ぐらいこじ開けろってんだよね、あの手の勇者は」  と、ポアは立ちどまったまま頭を垂れた。「いってらっしゃいませ」 「一緒に来ないの?」 「レイン女史は、夕子様お独りとお会いしたいと」  ますますRPGじみている。  そう思わせることにもなんらかの意図があるのか。 「じゃ、またね」夕子はぶらりと歩を進めた。  しだいに目が慣れてきて、薄暗いなかにも通路の行く手はおぼろげに浮かびあがっている。  昭和三十年代か四十年代を思わせる古臭い印象漂う商店街。看板にはなんの文字も入っておらず、シャッターもすべて閉ざされている。それでも床は綺麗《きれい》だった。わずかな明かりを反射して輝いている。  やがて、大きな観音開きの扉へと行き着いた。  夕子がその扉に達する寸前、扉は音もなく自然に開いた。  その向こうは、洋館のエントランスホールを思わせる空間だった。吹き抜けの天井にぶらさがったシャンデリアが灯《とも》す明かりで、辺りのようすははっきりとわかる。  床はエンジいろの絨毯《じゆうたん》。そこかしこに調度品が並んでいる。中世から近世にかけての北欧調だった。  壁の額縁に掲げられた絵画にはなぜか、この内装にそぐわない極端に前衛的なものが含まれている。  螺旋《らせん》階段が上方に伸びていて、二階のバルコニーが見えている。  そこに、ひとりの女がたたずみ、こちらを見下ろしていた。  深紅のドレススーツを着た、スーパーモデルのようなプロポーションを持つ派手な女。年齢は三十代半ばぐらい。化粧の濃さはこの距離からも明確に見てとれる。やたらと大きな瞳《ひとみ》、寸前にセットしたかのような長い髪のウェーブは、女性雑誌の表紙から抜けだしてきたかのようだった。 「ひさしぶりね」ジェニファー・レインは、どこか冷ややかな響きのこもった日本語で告げてきた。 「ま、そうね」夕子はその場にたたずんだまま、ジェニファーを見あげた。「こんなところに住んでんの? 銀座の一等地じゃん」 「ここはわたしたちの利用するカンガルーズ・ポケットのひとつにすぎないわ」 「カンガルーズ・ポケット?」 「あなたにもそのうちわかるわ。もしあなたが、わたしたちの仲間として迎えられることがあればね」 「もし? どういうことよ。こうして戻ってきてあげたんじゃん。もとはといえば、あなたがわたしに興味をしめしたんでしょ」 「以前はね。いまはどうかわからないわ」 「なによそれ」 「夕子。なぜ明朝、鳥沢幸太郎に会う約束をしたの」 「そんなのわたしの勝手でしょ。プライベートにまで口をはさむつもり?」 「鳥沢幸太郎は岬美由紀と一緒にいる。好ましい選択とは思えないわ」 「嫌なら帰るわよ。わたし、ポアとの交渉で、あなたたちのもとに戻るってことを約束させられたけど、なにもかも言われるままに従うとは言ってないわよ。仮契約の四十億円がわたしの口座に振りこまれたのをネットバンキングで確認したから、まあ受けてもいいかって思っただけ」 「あなたはメフィスト・コンサルティング・グループの一員となる契約に同意した。いまさら撤回はきかない」 「レッドソックスの松坂なみに期待されてるみたいね。悪い気はしないけど」  ジェニファーは表情ひとつ変えなかった。「夕子。あなたはメフィストになにを求められているかわかる?」 「さあね。歴史を変えるとかなんとか、そのために必要な詐術に加担してくれっていうだけでしょ。あなたたちはわたしをこっそり見張ってて、男を手玉にとったり賃貸物件をタダで借りたりする手並みを見て、スカウトする気になった。しょせん詐欺師の親玉と子分の関係。そんなもんでしかない」 「ずいぶんわたしたちの存在を軽んじているのね。それに、あなた自身の存在も」 「そりゃそうでしょ。わたし、そこまでの器じゃないじゃん。っていうか、極悪非道な知能犯だったら他をあたれば? それでもわたしに執着するのは、ジェニファー・レインさん、あなたに個人的な理由があるからじゃない?」 「なんのことかしら」  夕子は思いつくままにいった。「あなたさ、わたしと同じ病気でしょ」 [#改ページ]   溺死  長いあいだ、ジェニファーは無言のまま夕子を見おろしていた。  微動だにしないその姿は、一枚の絵画のようでもあった。 「病気?」ジェニファーはぶっきらぼうにたずねた。「どんな?」  しらばっくれてやがる。夕子はふんと鼻を鳴らしてみせた。「自己愛性人格障害。そうでしょ? あなた、わたしと同じ匂いがするもの。いつも自分を飾るだけ飾って、うぬぼれが強くて、次から次へと富とか名声とか追い求めたがる。自分にしか興味持てないんだよね。たいへんよね、この症状って。ほかに趣味らしい趣味持てないし。自分が褒められることに直結しないと、なにも楽しくない」 「……わたしがそこまで単純だと思う?」 「そりゃもう。単純も単純、シンプルの極みっていうやつ。だから、腹黒くても見え見えなんだよね。考えてること、似通ってるし。あなたが求めてるのって、わたしじゃなくて岬美由紀でしょ」 「あんな女を、わたしが仲間に欲すると思う?」 「違うって。そうだなー、強いていえば彼女の能力、千里眼の女が起こしてくれる奇跡ってやつだっけ? 岬美由紀ってすごいんだよねぇ。才色兼備で、非の打ちどころなくて、しかもどんな問題も解決するじゃん。あなたはさ、岬美由紀にわたしを救わせたがってるわけよ」 「そこにどんなメリットがあるというの?」 「大ありじゃん。あなたはわたしと同じ自己愛性人格障害。完治が極めて難しい、偏った人格の持ち主なんだよね。そんじょそこいらの精神科医や臨床心理士じゃお手上げってやつ。自分を特別な存在に祭りあげてないと気が済まないから、世紀の犯罪者か歴史をつくる神でも自負してないと、アイデンティティを保てない。完全に病気よね。でも、岬美由紀ならきっとなんとかしてくれる。メフィスト・コンサルティングって岬の天敵なんでしょ? 彼女はわたしを是が非でも助けようとする。その過程で秘密がわかる。自己愛性人格障害を治療する方法がね」 「わたしがそれを知りたがっているっていうの?」 「そうよ」胸がむかむかする。夕子はこみあげてくる怒りとともにいった。「なにさ、さんざんわたしをたぶらかして、おだてておいて、結局は自分のためじゃん。人を利用して楽しい? いえ、楽しいとかそういうことじゃないよね。生きていくための糧みたいなものだもんね。よくわかるわ、わたしも同じだから」 「まるっきり人を信用しないのね」ジェニファーは言葉を切り、それからつぶやくようにいった。「理解できるわよ。わたしもあなたを信用してない」 「……ついに認めたわね。やっぱそうだったわけ。あなたなんか、ただ人に依存したいだけの小悪党よ」 「対象を理想化しては軽蔑《けいべつ》化する。自己愛性人格障害の特徴ね」 「あなたと同様にね、ジェニファーさん」 「自己愛性人格障害は、メフィスト・コンサルティング・グループ特別顧問に必要不可欠な条件でもあるの。人を超越し、神となるべき役職だから」 「その特別顧問ってのがなにをするのかよく知らないけどさ、自己愛性人格障害を心の支えにするにも限界が生じてきたってことでしょ? 行き詰まったから、治療してそこから抜けだしたいんじゃん。自分の病を治せない神様か。医者の不養生と同じだね。っていうか、神様も最終的に頼るのは岬美由紀だったってわけ。凄《すご》すぎよねぇ岬美由紀って」 「あなたは岬美由紀に治療法を提示されたら、おとなしく従うわけ?」  なぜかかちんとくる物言いだった。 「冗談。言うとおりにするわけないじゃん。わたしは治す必要なんて感じてないし。まして、あなたの利益につながるとわかっていたらなおさら。わたし、あなたのためにモルモットになるつもりないから」 「結構ね。それなら契約に従って、メフィスト・コンサルティングに忠誠を誓わざるをえなくなる。テストに合格すればの話だけど」 「テストって……」といいかけたそのとき、夕子は背後に人の気配を感じた。  振りかえると、そこには身長二メートルを超える大男が立っていた。  男は中東の民族衣装風の服装で、実際に顔つきはアラブ系のようだった。赤と黒、黄、白の派手な色づかいのその衣装は、長く大きなスカーフを頭からかぶることで、さらに特異な雰囲気をかもしだしている。 「アントニオ」ジェニファーがいった。「例のテストを」  アラブ顔の男はうなずいて、手にしていた救命胴衣を夕子の身体に装着しにかかった。 「ちょっと」夕子はあわててたずねた。「なにすんの? やめてよ!」  ジェニファーは冷淡な態度のままだった。「そのアントニオは中央アジア支社から出向してきた判定官なの。公正かつ厳正な審査をおこなってくれるわ」 「審査ってなによ。もし受からなかったらどうなるっての?」 「わたしたちの秘密を知った以上、そのまま歴史の表舞台に復帰させることはできない。気の毒だけど、そのときには生命を摘み取るしかないわね」 「そんなことできないわよ。わたしが死んだら、あなたの自己愛性人格障害は永久に……」  喋《しやべ》ることができるのもそこまでだった。  夕子はアントニオに担ぎあげられ、ホールのなかを運ばれていった。  戸口のひとつを入ると、そこは中世の監獄のように石造りの天井と壁に囲まれた通路だった。  通路の床には正方形の穴が開いていた。  まさか。  そう思ったとき、夕子はアントニオによってその穴に放りこまれた。  落下は、甲高い自分の悲鳴とともに始まった。  ぐんぐん加速する。  まだ落ちていく。  滞空時間は限りなく長く思えた。  竪穴を落下していく自分。もがいて手足をばたつかせても、どうなるものでもなかった。  やがて、足から固いものに叩《たた》きつけられた。  そのまま身体が潰《つぶ》れてしまうのではと思ったが、そうはならなかった。視界にひろがったのは、水中の気泡だった。耳鳴りのように聞こえるのは、水のなかの音だ。  息ができず、苦しくなってむせた。水を飲みこみ、さらに息があがる。  必死でもがいたとき、救命胴衣の浮力に助けられ、夕子は水面に顔をのぞかせた。  ぜいぜいと呼吸しながら、頭上を見あげる。  深い竪穴の底。出口ははるか遠くにあった。  それでもここは、本当の底ではないのかもしれない。足が床についていない。水はどれだけ溜《た》まっているのだろう。  暗闇のなか、ジェニファーの声が響いてきた。「質問に正解すれば、そこまでのタイムラグに応じて水位が上がる。早く答えれば、それだけ上昇の度合いも大きい。反対に、不正解なら水位は下がっていく」 「ふざけないでよ!」夕子は憤りとともに怒鳴った。「なにこのTBSみたいな企画。ばっかじゃないの。罰ゲームなんて受ける気ないから。さっさとここから出して!」  ジェニファーの声はつづいていた。「穴まで浮上したら自力で抜けだせる。それまでは正解をつづけなきゃならない。見てのとおり、壁は滑りやすくて足場はいっさいない。昇ろうなんて思わないで。それと、いちどだけヘルプを使うことができる」 「ヘルプ?」 「あなたの望んだ助っ人をひとり呼び寄せることができる。わたしとアントニオ以外でね」 「へえ。誰でもいいわけ? 岬美由紀でも呼んじゃおうかしら」 「むろんかまわないわ。規則だから」  夕子は苛立《いらだ》ちを覚えた。  ジェニファーは内心、美由紀を呼ばせたがっているに違いない。彼女がわたしにどんなことを話すのか、聞き耳を立てるつもりなのだろう。 「助けなんて必要ないから」と夕子は言い放った。  しばらく沈黙があった。  コンピュータの合成音のように抑揚のない声が、竪穴のなかに響く。「広島市で夏日を観測しているのに、北広島市では大雪注意報が発令されている。理由を述べよ」 「……アホくさ」夕子はつぶやいた。「北広島市ってのは北海道じゃん。札幌の隣り。明治以降に移住して開拓した人が故郷の地名をつけたんでしょ」  一瞬の間をおいて、頭上でなにかが作動する音がした。壁面に小さな穴がいくつか開いたように見える。  直後、それらの穴から水が噴きだした。滝のような水流。水面は波うちながら、ゆっくりと上昇しはじめた。  夕子は内心、ほくそ笑んだ。この程度か。  音声が出題をつづける。「警察無線で一七七といえばなにか」  その瞬間、夕子の脳裏に忌むべき光景がよみがえった。  思いだしたくもないあの地獄のような時間。  吐き気をもよおす悪夢。怒りと憎悪、屈辱にまみれた記憶。  額から鼻にかけて、縦に大きく切り傷のある男の顔。  その気色の悪い家畜のような吐息。  すべてが克明に想起された。  夕子は頭を振り、その記憶を追い払った。  すべては過去だ。もう思いだすことではない。 「答えよ」と音声が響く。 「……性的暴行。警察無線で一七七は、その発生を意味してる」  また水位が上昇した。  ただし、回答まで時間を要したせいか、今度の水の噴出はさほど激しくはなく、ほどなく止まった。  出題はつづく。「借金をしていても、給料が全額差し押さえられることはない。差し押さえは、債権の何分の一までか」 「四分の一。ねえ、これらの質問にはどんな意味が……」 「生命保険に加入して一年以内の自殺の場合、保険金はおりない。ただし、例外もある。どんなケースか」 「加入者が精神科に通ってた場合でしょ。これ何? なにかわたしの過去に絡んだ質問なの? それとも、ただのあてつけ?」 「ランドセルの語源は?」  夕子はふたたび嫌な気分に襲われた。  だが、今度はなぜそんな気持ちにさいなまれるのか、理由が判然としなかった。  どうしてだろう。不快感を伴う質問だ。なにか記憶に関わることのような気もするが、嫌悪感の生じた原因はあきらかではない。  ただし、答えはわかる。どこで覚えた知識かもはっきりしないが、回答することはできる。 「ランセル。オランダ語。貧民が拾ったものを入れるために使ってた革袋のこと。それがランドセルの名の由来」  水が流れ落ちてきて、水位は上昇しつづける。それでもまだ、ゴールは遥《はる》か先だ。  一問答えるたびに、二メートルほど上がっている。この調子だと、出口に達するまで必要な正解数は三十から四十というところか。  そう思ったとき、音声が告げた。「自分の意見を根拠なく多数派だと思いこむ心理的作用をなんというか」  夕子は戸惑い、口をつぐんだ。  わからない。知らない。心理学などに興味はない。 「し、心理作用? わかんないよ、そんなの。パス」  そのとき、ふいにゴボゴボと水面に泡が浮上した。  波が起きる。しかし、さっきまでとは状況が違う。  水位が下がっている。出口が遠のいていく。 「ちょっと、待ってよ! 心理学用語なんて知らないって言ってるでしょ!」  まだ下降は止まらない。正解を積み重ねる以前のスタート地点まで下がっても、なおも水は減りつづけている。 「待ってってば!」夕子は叫んだ。「汚いわよ、ジェニファー! わたしに岬美由紀を呼ばせようとしてるんでしょ。そのための心理学問題でしょ。違う?」  返答はなかった。竪穴のなかに響くのは、水が抜かれていくのにともなう泡の音だけだった。 「やめてよ、とめて!」夕子は必死で怒鳴る自分の声をきいた。「こんなことしても無駄だっての。わたしは岬美由紀なんかに救いは求めない! あの女の名前を呼ぶくらいなら溺死《できし》してやる!」 [#改ページ]   迎えの使者  午前零時をまわった。  岬美由紀はガヤルドのステアリングを切り、代々木上原駅にほど近い自分のマンションに戻った。  スロープを下って地下駐車場に入り、借りているスペースに停車する。  助手席では、幸太郎が頭を抱えてうつむいていた。 「幸太郎さん」美由紀は静かに声をかけた。「だいじょうぶ?」 「……うん。平気だよ。ただ少し、疲れただけで……」  だが美由紀は、幸太郎の疲労が体力的なものだけでないことを見抜いていた。  精神面の消耗が激しい。無理もないことだった。彼にとって、きょう一日の出来事はあまりに常軌を逸したことばかりだったろう。 「幸太郎さん。ごめんね……」  妙な顔をして、幸太郎は美由紀の顔を見た。「なんで謝るの?」 「巻きこんじゃったから……。わたし、西之原夕子には以前も会ってた。彼女を助けようと思えば、助けられたはずだった。なのに……不用意なひとことで、彼女は絶望してしまった。彼女を失意の淵《ふち》に立たせたのは、ほかならぬわたしなの」 「そんなことないよ、岬先生。そのことならさっき舎利弗先生も言ってたじゃないか。不可抗力だったんだろ? あの冠摩《カンマ》っていうウィルスの事件にまで関わってたなんて、知らなかったけど……。岬先生はそのとき、なによりも先にワクチンを回収しなきゃならなかった。大勢の命が奪われるかどうかの瀬戸際だったんだから」 「それはそうだけど……」 「西之原さんは看護師に化けて、ワクチンを持ち去っちゃったんだろ? とんでもないことをするよね。あまりにも身勝手すぎるよ」  美由紀は黙ったまま、ステアリングに置いた自分の手を眺めていた。  身勝手。そうだったろうか。あの追い詰められた夕子がみせた寂しげな表情。きのうのことのように、克明に目に焼きついている。  わたしは夕子を追っていた。非常階段に通じる扉が半開きになっているのに気づき、扉を開け放って外に飛びだした。  夜。月明かりが降り注ぐ階段の踊り場に、夕子の姿があった。  夕子はあわてたらしく、足を踏み外して転倒した。苦痛のいろを浮かべて呻《うめ》いた。ワクチンの入ったケースは、その傍らに転がっている。  美由紀は階段を降りていった。「それを返して」  ところが、夕子はすぐさまケースを抱えて立ちあがった。  手すりの向こうにケースを突きだして、夕子は怒鳴った。「近づいたら落とす!」 「やめてよ! どうしてそんなことするの。あなたのお兄さんはもう逮捕されたのよ。いまさら妨害をしてなんになるの」 「少なくとも、あの女は死ぬ」 「あの女って……里佳子《りかこ》さんのこと?」 「そう。あの女! 兄をたぶらかしたクズ女。人並みに恵まれて育ったからって、わたしを見下す下劣きわまりない女」 「里佳子さんはそんな人じゃないわ」 「てめえになにがわかるっての。ほんとに不幸なのは誰なのか知ってんの? わたしがどれだけ孤独な人生を歩んできたか、知りもしないくせに。部外者はひっこんでなよ」 「どんな理由があるにせよ、人を死なせる言い訳にはならない。わたしはカウンセラーなの。部外者であっても、苦しんでいる人は見過ごせない」 「なら」夕子はふいに目を潤ませて叫んだ。「てめえ、わたしを助けなさいよ! わたし、人格障害じゃん。カウンセラーならわかるでしょ。里佳子なんかより先に、わたしを助けてよ!」 「……里佳子さんは命の危機に瀕《ひん》してる。あなたの心を救ってあげたいけど、それはあなた自身が一歩を踏みださなきゃいけない」  そのとき、夕子の顔から表情が消えた。 「結局、わたしってそうなのね。誰にも助けられない。岬美由紀にも、わたしは見放された」 「それはちがうわ。あなたは……」  ふいに夕子はワクチンの入ったケースを、美由紀に投げて寄越した。  美由紀は驚きながらそれを受けとった。  夕子の顔に笑みが浮かんだ、そう見えた。  だがそれは、空虚な笑いだった。  いきなり手すりを乗りこえて、夕子は非常階段の外に身を躍らせた。 「夕子!」美由紀はあわてて駆け寄ろうとした。「やめて、早まらないで!」  しかし、夕子はためらうようすもなく、身体を宙に投げだした。  落下は速く、一瞬だった。夕子の身体は、ビルの谷間の闇に、吸いこまれるように消えていった。  どさりと音がした。美由紀は手すりから下を覗《のぞ》きこんだ。  真っ暗で、なにも見ることはできなかった。  遠くでサイレンの音が沸いている。  美由紀はケースを抱きかかえたまま、その場に座りこんだ。  胸に強烈な一突きを食らい、開いた穴を風が吹きぬけていく。そんな虚《むな》しさだけがあった。  美由紀は停車したガヤルドのなかで、深く長いため息をついた。  助手席の幸太郎が心配そうに顔をのぞきこんできた。「岬先生……。どうかした?」 「いいえ……。ただ思いだしていただけ」  あのとき夕子は、わたしにワクチンを投げて寄越した。胸に抱いたまま飛び降りようと思えば、できたはずだった。  彼女は兄の結婚相手である里佳子に嫉妬《しつと》していた。夕子の行為と言動だけをみれば、彼女は里佳子の死を望んでいたことになる。  それでも夕子は、ワクチンを返却した。里佳子の命を救うことになると知っていて、あえてそうした。  と同時に、夕子はみずからの命を絶とうとした。  メフィスト・コンサルティングとの出会いがあったとしても、それはあの自殺未遂以後のことだろう。あのとき、夕子の顔に策謀のいろなどなかった。  失意と諦《あきら》め、それが彼女のなかにあったすべてだった。  同じ感情を、美由紀は二度まのあたりにした。  その二度とも、永遠の別れを遂げる寸前のことだった。  友里佐知子《ゆうりさちこ》と鬼芭阿諛子《きばあゆこ》……。  幸太郎がじっと見つめているのに気づき、美由紀は我にかえった。  わたしの個人的な感情だ。思い詰めて、彼にまで心配をかけてはいけない。  ドアを開け、外に降り立ちながら美由紀はいった。「きょうはもう休みましょ。明日朝九時に横浜ってことは、かなり早起きしなきゃ。オロチも取りにいかなきゃいけないし」 「そうだね」と幸太郎も車外に這《は》いだしながらいった。「あ、岬先生」 「なに?」 「夕子さんに会ったら……どうすればいい?」 「……あなたはどうするつもりなの?」 「わからないけど……。たぶん、できるだけ時間をかけて説得してみると思う。彼女が、メフィストとやらのもとに走らないうちに」 「あまり無茶はしないでね。まだ状況が読めないし」 「そうだね。夕子さんよりも……いつ起きてもおかしくない大地震を心配しなきゃいけないだろうし。彼女の身柄よりも、人工地震についての情報を探りだすほうを優先すべきだし」  美由紀は妙な気分になった。幸太郎はなにかを気にかけている。しかしそれがなんであるかが判然としない。 「幸太郎さん。西之原夕子のことを、どう思ってるの?」 「え? いや、もう理想化はしてないから……」 「そうでも好きなの? 彼女を助けだしたいと思う?」 「いや、ええと、どうかな……。自分でも、そのう、よくわからなかったり……。岬先生は、どう思う? 僕自身より正確に、僕の気持ちをわかってるんじゃ……」  美由紀は首を横に振ってみせた。「わからないの。恋愛感情の有無だけは」 「……そうなの?」 「ええ。あなたが戸惑いを覚えていることだけはわかるんだけどね。恋する心は読み取れない」 「へえ、そういうものなんだ。だけど、どうして?」  理由を告げるのは難しかった。自分でもよく判らないからだ。  口をつぐんだまま、美由紀はハンドバッグから鍵《かぎ》を取りだし、幸太郎に投げて寄越した。  受け取りながら幸太郎がきいた。「これは?」 「わたしの部屋の鍵。そこのエレベーターで五階にあがって、突き当たりのドア。先に入ってて。わたしは、マンションの周りを見回ってから行くから」 「あ、はい。いや、でも……。そのう、いいんですか? 岬先生の部屋に泊めてもらうなんて」 「いいのよ。大久保の雑居ビルにも実家にも戻れないんでしょ?」 「だ、だけど、女性の部屋に泊まらせてもらうってのは、経験上あまり……。まあその、僕は床に寝てもいいんですけど、でも女性と同室するというのは……」 「ああ。寝るところなら心配いらないから。客間がふたつあるし、客用ベッドもあるの。リビングにグランドピアノを置いている関係で、防音もしっかりしてるし。独りでぐっすり眠れるから、心配しないでね」 「は……はい、そうだね。どうも本当にありがとう。じゃ、先に部屋にいますから……」  そそくさと立ち去る幸太郎の背を見送りながら、美由紀は思わず首をかしげた。  いま、ひどく残念そうな思いが一瞬、幸太郎の表情から読みとれた。どうしてそんな感情に駆られたのだろう。  しばし考えてみたが、わからなかった。まだ読めない心理もあるということだ。精進せねば。  歩いてスロープに向かう。地上に昇ろうとしたとき、その行く手にただならぬ気配を感じた。  美由紀は足をとめた。  坂道の先、二メートルを超える身の丈の男が立っている。中東風のスタイルに見えるが、実際は中央アジアのトルクメンの民族衣装に身を包んだ、アラブ系の男。 「私の名はアントニオ」男はアラビア語でいった。「お連れします」  ベルベル語の方言が交じっている。美由紀は発音に注意しながらいった。 「ちょっと待って。遠いの?」 「遠くはありません」  迎えが来た。  この男がメフィスト・コンサルティングの使いであることはまず間違いない。セルフマインド・プロテクションで感情を完全に隠蔽《いんぺい》しているのがその証拠だった。 「いいわ。でも、幸太郎さんを呼んでこないと……」 「必要ありません。求められているのはあなただけです」 「わたし……だけ?」 「西之原夕子は、あなたの助けを必要としています」 「彼女がそういったの?」 「その通りです」  にわかには信じがたい状況だ。けれども、嘘だという根拠はどこにもない。それに、わたしを罠《わな》にかけるつもりなら、もっとうまい作り話があるだろう。 「岬美由紀」アントニオがたずねてきた。「西之原夕子の要請を受諾しますか?」 「……ええ、もちろんよ」  するとアントニオは、懐から一本のジュース缶を取りだした。  真っ黒に塗られた缶、商標などは入っていない。それをスロープに置いて、転がした。缶は美由紀の足もとまで転がってきて、とまった。  アントニオがいった。「それを飲んでください」  美由紀は躊躇《ちゆうちよ》した。いや、ためらわない者など、いるはずもない。  ゆっくりと缶を拾いあげる。プルトップの蓋《ふた》を開けてみた。  顔に近づけて匂いをかいでみたが、無臭だった。 「飲んでください」とアントニオが繰り返した。「西之原夕子の要請に従うのなら」  迷いとともに、蓋のなかにわずかにのぞく液体を見つめた。  ある意味では自殺行為だ。なにが待っているのかもわからない状況、それ以前に、得体の知れないものを口にふくむなんて。  夕子の声が脳裏に響く気がした。  誰にも助けられない。岬美由紀にも、わたしは見放された。  もう二度と、見放したりしない。  美由紀は缶をあおった。ためらうこともなく、液体を飲み下した。  なんの味もしなかった。  だが、アントニオの姿が二重に見えだした。  その像もだんだんぼやけてくる。  ふらついて、足もとから崩れ落ちた。  缶が落下して音をたてる。  それが、その場における美由紀の最後の感覚だった。 [#改ページ]   美しく青きドナウ  意識が少しずつ戻ってきた。  美由紀はぼんやりと目を開いた。  奇妙な感覚だ。  浮遊している。  足が地面を踏みしめていない。  それに、この籠《こ》もったような音。耳鳴りのようでもある。  顔に水滴がかかり、美由紀ははっとして目を凝らした。  そこは薄暗い竪穴のなか、首まで水に浸かっていた。  水面に顔をだしたまま、沈まずに浮かんでいるこの感覚。幹部候補生学校でのポンドという巨大なプールにおける訓練で経験した、その記憶のままだった。  浮力は、救命胴衣によって生じている。  襟もとに手をやる。救命胴衣の下は、マンションから連れ去られる前に着ていたスーツのままだった。  ずぶ濡《ぬ》れになって水を吸った服はそれ自体が重い。  薬品の効き目が残っているせいもあってか、身体の動きは鈍かった。  夕子の声が響いてきた。「ようやくお目覚めか。呑気《のんき》なものね」  美由紀は声のしたほうに身体の向きを変えた。  夕子はすぐ近くに、やはり救命胴衣を身につけて浮かんでいた。 「西之原夕子」美由紀は呆然《ぼうぜん》としてつぶやいた。「ここはいったい……」 「どこなのかって? さあね。銀座四丁目地下の幻の商店街の先にある、お屋敷のホールみたいなところのそのまた地下。メフィスト・コンサルティングとやらのテストだって」 「テスト?」 「そう。採用試験みたいなものかな」  そのとき、頭上から機械的な音声が聞こえてきた。「自分の意見を根拠なく多数派だと思いこむ心理的作用をなんというか」 「……なにこれ?」と美由紀はいった。 「早く」夕子が急《せ》かしてくる。「答えてよ」 「クイズに正解すればいいわけ?」 「まあそういうことね。正しければ水位があがってゴールが近づき、間違えば下がって遠のく。助っ人をひとり呼び寄せることができるってルールらしくてさ。で、あなたを呼んだわけ」 「わたしを? どうして」 「心理学の問題だし、それを望んでる女がひとりいるみたいだから」 「女……。ジェニファー・レインのこと?」 「いいから、さっさと答えて。正解してくれないと、あなたを呼んだ意味もないでしょ」  美由紀は頭上に目を向けた。  はるか遠くに四角い出口が見える。あそこまで達すればいいわけか。  それにしても、こんな方法が採用試験とは、つくづく常軌を逸している。いったいなにを調べようというのだろう。  ふたたび音声が告げてくる。「答えよ。自分の意見を根拠なく多数派だと思いこむ心理的作用をなんというか」 「フォールス・コンセンサス効果」と美由紀はいった。  壁づたいに水が流れおちてきて、水位が少しずつ上がりはじめる。  夕子は安堵《あんど》のいろを浮かべ、ため息を漏らしていた。  すぐに次の出題があった。「言い間違いや忘れ物などのミスは、その人の本音が表にでたものと考えられるが、これをなんと呼ぶか」  美由紀は夕子にきいた。「わたしが答えていいの?」 「ええ。何問でもヘルプにまかせていいって、アントニオとかいう男がいってた」  ふうん。美由紀はつぶやいた。  夕子はアラビア語を聞き取れるわけではない。アントニオは日本語も喋《しやべ》れるわけか。わたしに対してはなぜそうしなかったのだろう。  ぼんやりと考えながら、美由紀は出題に回答した。「失錯行為」  音声はただちに新しい問題を告げてきた。「好きなものを嫌いといってしまう心理的作用を……」 「反動形成」 「自分は汚くても他人の汚さは許せない心理のことを……」 「プリッグ症候群」  間髪をいれずに答えつづけたせいか、流れ落ちてくる水の量が一気に増えた。  滝のように浴びせかけられる水によって息もできないほどだ。おかげで水位も急上昇しつつある。おぼろげに見えていた出口も、はっきりと視認できるようになってきた。  しばし出題が途切れ、沈黙があった。  降り注ぐ水のなかで美由紀は夕子にきいた。「心理学の知識を試されてるわけ?」 「そうばっかりでもないわ。ほかのことも聞いてくる。一貫性がないように思えるけど……」 「けど、何?」 「べつに。なんでもない」  顔をそむけた夕子を、美由紀はじっと見つめていた。  どうしたのだろう。嫌悪のいろがわずかに浮かんだことはあきらかだ。  夕子は、なにかに気づいている。意識の表層までには昇っていなくても、無意識の領域では感じとっている。出題者の意図を。彼女にとって、忌むべきなんらかの状況にいざなわれつつあることを。  合成音が響いてきた。「北国の野うさぎを見れば季節がわかるというが、なぜか」  これまた妙な質問だ。  美由紀はいった。「そりゃわかるでしょ。全身が白くなっているのは冬の時期だけで、夏は薄茶色に生えかわるわけだし」  水は流れ落ちつづける。ゴールがまたわずかに近づいてくる。  質問も続行された。「服に付着した血をふき取るために有効な野菜は?」 「大根ね」 「その根拠は?」 「大根に含まれている成分のひとつ、ジアスターゼが血液を取り除くからよ」 「沖縄で使っていた量りを、北海道に運んだときにはどう調整すべきか」 「最大〇・一八グラム減らすの。北海道と沖縄ではそれだけ重力が違うから」 「失踪《しつそう》後七年経つと、人はどう扱われるか」  美由紀は思わず沈黙した。  なんだろう。ふいに自責の念に似た、妙な感覚がこみあげてきた。  自分自身になんらかの落ち度があっただろうか。  いや、ここまでのところ、なんのミスもないはずだ。  それでも、胸騒ぎを覚える。この心の不安定さはどこから生じたのか。  夕子に目を向けた。夕子も黙りこくって、心配そうな顔で見返してくる。  彼女がおぼろげに感じている懸念や心もとなさが理解できる気がした。たしかにこの出題には、なんらかの意図が見え隠れしている。  それもまぎれもなく、回答しようとするわたし自身に向けられたものだ。わたしのこれまでの人生に関わりがあること、そんなふうに思えてならない。  だが、具体的にはなにひとつ記憶に浮かんではこない。 「答えよ」音声は執拗《しつよう》に問いかけてくる。「失踪後七年経つと、人はどう扱われるか」 「し……死んだと同じ扱いになる」  音声は沈黙した。  しかし、美由紀の口にした答えは正しかったらしい。  水流はとめどなく、竪穴のなかの水かさを増やしていく。  そのとき、夕子がささやくようにいった。「気分が悪い……」 「だいじょうぶ?」美由紀は夕子の顔を覗《のぞ》きこんだ。 「駄目みたい……。もう何時間も水に揺られて、吐きそう。プールでも一時間にいちどは休憩タイムがあるのに……」  夕子は咳《せき》こんだ。見るからに辛《つら》そうだ。 「しっかりして」美由紀は立ち泳ぎの要領で夕子に近づいていった。「熱でもあるの?」  美由紀は夕子に顔を近づけた。  ところがその瞬間、夕子は思いがけない行動にでた。  ふいに美由紀の唇に吸いつくようにしてキスしてきた。  突然の行為に、美由紀はあわてて身を引こうとしたが、身体は動かなかった。  夕子に抱き寄せられたまま、しばらくその姿勢で静止していた。  抵抗の意志が生じないこと自体、まったく不可解なことだ。  それでもほかに、どうすることもできなかった。  夕子にどんな意図があるのかも判りかねる状況で、突き放すことはできない、そう判断しているのかもしれない。  とはいえ、夕子が舌を絡めようとしてきたとき、さすがに美由紀はこのうえない不快感を覚え、もがくようにして夕子から離れた。 「なにをするの!」と美由紀は怒鳴った。  夕子は目に涙をためて、いまにも泣きだしそうな顔でつぶやいた。「わからない。でも寂しい。寂しくて、虚《むな》しいよ……。なんだかわからないけど、不安でたまらない」  美由紀は呆然《ぼうぜん》として、夕子を見つめた。  その言葉に嘘がないことはわかる。  けれども、なぜ彼女がこんな心理状態に至ったのか、それについては見当さえつかない。  むろん、このような閉塞《へいそく》感のある場所に閉じこめられて、長時間にわたり水責めを受けていれば、精神的負担はかなりのものになるだろう。  だがいまは、美由紀が連続して正解したことでゴールが近づきつつある状況だ。  それなのに、夕子の心は希望とは逆のベクトルへと向かっている気がする。 「どうしたっていうの、夕子。いまのはなぜ……」 「キスしたのは……別にあなたが好きってわけじゃないのかも。ユダだって、裏切りの前にイエスにキスをしたんだし」 「……不自然な喩《たと》えね。どうして聖書なんか持ちだすの? あなたらしくもない」 「ええ、ほんとにそう。なにもわからない。ただ……」 「なに?」  夕子は耳をすますような表情になった。「音楽が聴こえる。ワルツが……」  音楽。そんなものは、この空間には……。  いや。聴こえる。  たしかに、耳に届いている。  弦楽器トレモロによる伴奏、ホルンの奏でる主旋律。  しだいにそれが、ワルツのリズムを刻んでいく。  美しく青きドナウ。ニ短調の主部がしだいに大きく聴こえてきた。  さらに音量があがり、壮大なオーケストラによるワルツのメロディーが、竪穴のなかに反響する。  その向こうで、ぼそぼそと声がするのを聞きつけた。  出題の合成音声。しかし、ワルツが大きすぎてよく聞き取れない。  選択的注意の技能を試す気か。この音楽のなかで音声だけを聞き分けろというのだろう。 「美由紀……」夕子がささやいた。 「待って」美由紀は夕子を制し、聴覚を研ぎ澄まそうとした。  だがそのとき、美由紀のなかでなにかが警鐘を鳴らした。  わたしは、注意を向けるべき相手を間違っている。この状況に惑わされてはならない。  夕子に目を戻す。夕子はいつしか、顔を真っ赤にして泣きじゃくっていた。  美由紀はいった。「夕子。なんでも言って。わたし、あなたの言葉に真っ先に耳を傾ける。そう決心したから」 「嘘」夕子は泣きながらつぶやいた。「いまも無視したじゃん」 「ごめんね。でも、もうしない。約束するから。誰がなにを話しかけてきても、どんな状況でも、わたしはあなたを後まわしにしたりしない」 「どうしてそこまで言いきれる? 口だけかも」 「いいえ。わたし、あなたを助けるって心に決めたの。ほんとよ」  常識で考えれば、夕子を救うためにもまずはこの状況を抜けださねばならない。それには音声の告げてくる質問内容を聞き取り、正解しつづける必要がある。  夕子が理性的ならば、そのことを理解するはずだ。  だが、夕子はそんな状況を受けいれられない。彼女はどんな状況であれ、自分が望んだとおりになることを求めてやまない。  自分が問いかけたら相手が答える。その答えは、自分をあらゆる面で肯定し、褒め称《たた》え、勇気づけ、賛美するものでなければならない。  本能の充足。  子供と同じ。  夕子はことさらに、愛情というものに飢えている。だから理屈はともあれ、人の目が自分に向くことを望む。幼いころに、親に対してそう望んだように。そして、親が決してその期待に応《こた》えてくれず、願望だけが育ち、肥大化した。その夢想のままに。  ワルツはなおも音量をあげていき、騒々しいほどだった。その向こうで、読経のようにかすかに聞こえる音声がある。  その音声に集中するためには、夕子に注意を向けることを一時的にも断つ必要がある。  しかし美由紀は、その道は選ぶまいと決心した。夕子は物心ついて間もない幼児と同じだ。母親を必要としている。この場でその役割を受け持つことができるのは、わたししかいない。  ふと気になることがあった。  夕子が依存心を持つ相手は、本来わたしではない。彼女には、どうあっても愛情を通わせたい相手がいたはずだ。 「夕子。聞いて。あなたのお兄さんのことだけど……」 「お兄ちゃん? どこにいるの?」 「いえ、ここにはいないの。でも、呼ぼうと思えばできたはずよ。ヘルプは誰でもいいって、そういわれたんでしょ?」 「お兄ちゃんは刑務所のなかじゃん……」 「でも、メフィスト・コンサルティングなら、それも可能だったはずよ。あなたも、あいつらがとてつもない力を有していることを知ってるでしょ? なぜお兄さんを呼ばなかったの?」 「そんなの、駄目よ。できるわけないじゃん。こんなところで、水にゆらゆらと浮き草みたいになるなんて……」 「お兄さんをそんな目に遭わせたくないってことね? 心から愛してるのね」 「……違うって。あなたは根本的に考えがずれてるよ、岬美由紀。そりゃ、お兄ちゃんのことは好きだけどさ。わたしのこの惨めな恰好《かつこう》を見せたくないっていうだけ。こんなざまを、お兄ちゃんに見せられるわけないじゃん」  兄に自分の姿、それも自己の美意識を充足させる姿を見せつけたいという、飽くなき欲求とこだわり。  それが兄からの愛情を得るために不可欠な要素と信じているのだろうか。  美由紀はきいた。「どんな状況で、お兄さんと会いたいと思う?」 「決まってるでしょ。頭の上からつま先まで、完璧《かんぺき》なファッションに身を包んでさ。高級ブランド品で全身を固めて、お兄ちゃんよりかっこいい彼氏連れて、会いに行くの。お兄ちゃん、きっと羨《うらや》ましがる。豚箱でくさい飯食ってる自分が情けなくて、泣きだすよ、きっと」 「それを望んでるの? ……ひょっとして、明日横浜で幸太郎さんと待ち合わせしたのは……」 「そうよ。オロチで府中刑務所に乗りつけてやってさ、ふたりでお兄ちゃんと会うの。あ、その前に、横浜でたっぷり買い物してかなきゃ。服はぜんぶ新調しなきゃね。美容院も行かないと。朝一番に予約してあるけど、間に合うかな」 「夕子。お兄さんをさんざん羨ましがらせたとして、そのあとはなにがあるの?」 「あとって? べつに……。なにも考えてない」 「あなたは指名手配犯なのよ。顔は変えたけど、幕張メッセからクルマを盗んだ罪もある。刑務所にいって、ただで済むと思う? 逮捕されちゃうわよ」 「なんで? わたし、メフィスト・コンサルティングってのに入るのに。そのためにこのテストに合格しなきゃいけないし、だからあなたも呼んだのよ。ジェニファー・レインさんの後ろ盾を得たらさ、日本の警察なんて赤子同然よ」 「万能の力を得て、自分の誇大感を完璧に充足させて、お兄さんを蔑《さげす》む。それがいまあなたの望んでいるすべてなの?」  夕子の顔がこわばった。「だったらなによ」  美由紀は頭上を見あげた。出口はまだ遠い。  ワルツは、なおも鳴り響きつづけている。 「ねえ夕子。この音楽の向こうにわずかに聞こえる声、聞き取れる?」 「はあ? 声なんか聞こえる?」 「さっきからずっと、質問の声はつづいてる。その声のトーンにのみ集中することができれば、聞き取れるのよ」  しばし夕子は耳をすましていたが、すぐに首を横に振った。「馬鹿いわないでよ。たしかになんか、ぼそぼそ喋《しやべ》ってる声が聞こえてる気もするけど、あんなのがちゃんと聞き取れるなんて冗談もいいとこ。あなたは聞けるっての? 千里眼だけじゃなくて地獄耳でもあるって言いたいわけ?」 「夕子。あなたがメフィスト・コンサルティングに入ったら、いままで不可能に思えていたことも可能になる。この声も聞けるようになるわ。けれども、忘れないで。それは人として生まれ持った能力を訓練で伸ばしただけでしかない。だからメフィストに属さずとも発揮できる力なの。決して、メフィストが与えてくれる特殊な魔法なんかじゃない」 「そんなこと……」 「いま証明してみせるわ」  美由紀は目を閉じた。  身体の力を抜き、自己暗示によって軽度のトランス状態に誘導する。理性の働きを鎮め、本能を表出させていく。  聴覚、数分前までは明瞭《めいりよう》に聞こえていたあの抑揚のない声のトーンに注意集中する。  ほどなく、イコライザーを調整するように、ワルツの演奏のなかから音声だけが漉《こ》して取りだされてきた。 「答えよ」音声は告げていた。「東京駅の駅長と一緒に食事をした。あくる日、同じく東京駅の駅長と会ったが、彼はきのう一緒に食事をした記憶はないという。なぜか」 「別の人だから」美由紀はいった。「東京駅には駅長がふたりいるの。東日本旅客鉄道の駅長と東海旅客鉄道の駅長」  ざあっと音をたてて、壁から水が噴きだした。 「嘘でしょ」夕子が驚きの声をあげた。「正解したの? どうやって聞き取ってるの?」  美由紀は答えなかった。  無視すれば夕子の機嫌を損なうとわかっていて、あえて聴覚への集中をつづけた。大人の能力をみせつけ、信頼を高めるのも母親の仕事。美由紀はそう思った。  質問の声がつづいた。「人間の体温は三十七度ほどなのに、同じ三十七度の気温のなかでも暑苦しく感じる。その理由を述べよ」 「人体は、生きているだけでエネルギーが発生し放熱を必要とするのよ。だから体温と同じ気温では不快に感じる」 「子供向け玩具《がんぐ》の対象年齢は日本玩具協会の検査に基づいて決められるが、その基準となる三点はなにか」  またしても、なんらかの記憶の傷跡に触れた感覚がある。  積み木が目の前をちらついた。  赤い積み木。小さな子供の手が、積みあげられたそれを崩す……。  そこから先を想起することはできなかった。  フラッシュバックのように一瞬浮かんだ光景にすぎない。それが現実の記憶かどうかさえもさだかではない。  美由紀は混乱を振りきって質問に答えた。「怪我、誤飲、引火のしやすさの三点よ。十八か月未満の赤ん坊対象のものは、のどの太さまでも考慮して決められる」 「関東地方で雷が多い理由は?」 「群馬県の山地で温められた空気が、上昇気流を生んで雷雲に発達しやすいからよ」 「|1《ワン》から|99《ナインテイナイン》まで、数字を英語で表記したとき、使用しないアルファベットは?」 「Aよ」 「では一から九十九までをローマ字表記した場合、使用しないアルファベットは?」 「Eね」  立て続けに正解したためか、落ちてくる水の量が恐ろしく増大した。水位がどんどん上昇しているのがわかる。  美由紀はうっすらと目を開けた。  あんなに遠くに見えていた出口は、もう頭上十メートルほどのところにまで迫っている。  夕子がはしゃいだ声をあげた。「あと二問も正解すりゃ出られるじゃん!」  ワルツはひときわ大きく奏でられていた。  美由紀は聴覚を研ぎ澄まし、声に集中した。  音声は問いかけてきた。「飼い猫の……」  その瞬間、美由紀の脳裏にひらめくものがあった。  離島。高齢者がほとんどの島。穏やかな青い海。  その潮の風に、わたしはたたずんでいた。  島のどこにいこうと、猫がいた。  しかしそれらは、野良猫ではなかった。  これを問いかけられることは、わかっていた気がする。  雷、そして積み木。AとE。  いずれもわたしの記憶になんらかの断片を残している。そしてこれも……。 「東京都の小笠原《おがさわら》村、沖縄県の竹富《たけとみ》町」美由紀は、質問を聞かずして答えた。「それが飼い猫の登録を条例で定めている地域よ」  水流の音が正解を告げてきた。 「あと一問!」と夕子が甲高い声をあげた。「あと一問!」  美由紀は唖然《あぜん》としていた。  どうして問題の先が読めたのだろう。  勘などではない。わたしは、この設問に沿った人生を送ってきている。紛れもなくそうだ。そう感じる。  けれども、そんなことはありえない。わたしは離島になど住んだことはない。積み木も家にはなかった。  まるで別人の記憶が混在したかのようだ。  ふいに、ワルツはぴたりとやんだ。  静寂が訪れ、水流の音だけが竪穴に響いている。出口は、ほんの数メートル上にまで迫っている。  抑揚のない声がたずねてきた。「妊娠したとき胎盤となり、ホルモンが放出される部位は?」  美由紀は絶句した。  その顔を見て、夕子が愉快そうに笑った。「わたしが替わって答えるわ。絨毛《じゆうもう》、でしょ。岬美由紀。あなたってたぶん、その種の話題ってタブーよね? 避けてるなぁって前から思ってたもん。察するに、男と寝たことないんでしょ?」  しばし時間が静止したようだった。  水位が上昇をつづけ、もう出口は間近に迫っている。夕子が正解したからだろう。  出口の向こうには、暗い天井が見えていて、シャンデリアがさがっている。  ここから抜けだせるときがきた。  だが、達成感はない。救われたという喜びもない。  絶望だけがあった。  それは、かつて感じた死の恐怖に等しい記憶の再来だった。  視界が揺らいだ。  いつしか美由紀の目には涙があふれていた。それが頬をつたうのを感じる。  夕子は美由紀の異変に気づいたようすだった。夕子は聞いてきた。「ちょっと、どうしたの? なんで泣いてるの?」 「……わたしは」美由紀はつぶやいた。「わたしは、処女じゃないわ」 [#改ページ]   理解  直後、轟音《ごうおん》とともに、水位が急激に低下した。  それはまるで、奈落の底に引きずりこもうとする魔手にひとつかみされたかのようだった。  竪穴のなかに激しい渦が巻き、美由紀は夕子とともに水面を激しく回転した。  出口は、みるみるうちに頭上に遠ざかっていく。 「どういうことよ!」夕子が怒鳴った。「正解したのに! なんで水が減っていくの!」 「夕子。お願い。聞いて」 「なんでなのよ! こんな……」 「聞いてよ、お願いだから!」美由紀は激しく渦巻く水流のなかで、夕子の両手を握った。「わたしの目を見つめて、決して逸《そ》らさないで。声をひとことも聞き漏らさないで」 「ど……どうしたっていうの? あなた、なにか変よ」 「違う。わたしのことなんか、どうでもいいの。それよりあなたのことよ、夕子。あなたはテストに合格した。メフィスト・コンサルティングに入ってしまう」 「なんで? 現にこうして出口が遠くなっていくのに……」 「水位が下がっているのはおそらく、わたしを外にださないためよ。メフィストはわたしを助けるつもりはない。そしてあなたも、自由にするつもりなんかないはず」 「なによそれ。約束と違うじゃん」 「メフィスト・コンサルティングに迎え入れられることで、あなたは現代文明に築かれたあらゆる約束事を超越することを望み、それが果たされることになった。警察も、政府も、もう恐れる必要がなくなる。彼らの約束する自由とは、そういう意味なの。一方で組織には従属を余儀なくされる。一生、普通の人間に戻ることは許されない」  夕子はただ呆然《ぼうぜん》と美由紀を見かえしていた。  どれだけわたしの言葉を理解してくれたか、わかるものではない。それでも、彼女に伝えておかねばならないことがある。  荒れ狂う嵐の海のような渦のなかで、美由紀は大声でいった。「自己愛性人格障害の症状に流されないで。立ち直ることができたら、メフィスト・コンサルティングの呪縛《じゆばく》から抜けだせる。彼らがあなたのその弱さに目をつけていることは、まず間違いないから」 「立ち直るだなんて。精神科の先生も誰も、わたしを治せなかった。あなただって……」 「聞いて。治療するんじゃなく、その人格を自分のものとして理解し、長所も短所も受けいれることよ。もし怒りに我を忘れることがあったとき、その時点で自己愛性人格障害だからと自分をなだめることはできない。でも、自分に異常が起きそうな状況をあらかじめ察知して、避けることはできる。そうしているうちに、冷静さのなかから自分を再発見していくことが可能になるの。わかった? だから症状をありのまま受けいれて」 「わ……わかった。よくわからないけど、とりあえず聞くことにする……」 「それでいいわ」美由紀は早口に、思いつくままにまくしたてた。「夕子。あなたは、内面はいつも不安定なのに、外見は正常にみえる。頭がよくて、仕事ができて、表現力があり、人づきあいがうまく、魅力的だったりもする。これらはすべて、自己愛性人格障害の特徴なの。当初は誰も人格障害だなんて思わないから、あなたが不適応行動を起こしたとき、周囲はただ驚き困惑するだけ」 「そうよ。……当たってる」 「でもあなたは、自分について素晴らしすぎる理想化された自己像を抱いていて、自分は他人より優れているとか、特別だなんて思いこんでる。うぬぼれ屋さんなの。その誇大的な自己像を現実のものにしようと、絶えず努力している。常に成功や名声、権力、富、そして美を追い求めつづけてる」 「そこもまあ、わかってはいるわよ。でもいちいち指摘してもらう必要なんか……」 「いいから聞いて。あなたは努力する反面、いつも深刻なほどの不安を抱え、頼りなさを露呈し、基本的には他者に依存するタイプのはずよ。自尊心を保つために、絶えず周りからの称賛を得て、好意を向けられ、特別な扱いを受けなきゃいけない」 「それが……どうしたっていうの? 誰だって上を求めるでしょ?」 「あなたの場合は健全な上昇志向じゃない。自己愛性人格障害の名声への依存は、つまるところ麻薬患者がクスリに依存するのと同じことなの。それがなきゃ自我が崩壊してしまう、そんな思いにいつも駆られているのよ。自分の力でそれが果たされないときには、自分が理想とするような権力や能力の持ち主に頼り、依存して、あたかも自分がその人であるかのように考えたり振る舞ったりする。経験があるはずよ。それに、嫉妬《しつと》心もとても強い。自分が所有したいと願うものを持っている人や、成し遂げたいと思っていることを実現している人に憎悪の感情を抱いたり、自分の不運を嘆いてわが身の不幸をかこつ。だから他人の失敗を喜ぶ」 「言いたいことを言ってくれるわね。わたしは自分に正直なだけよ」 「それを正直と感じるから人格障害なの。あなたは褒めちぎられるだけの要素を揃えたりして自尊心が高まっているとき、自分が弱く傷つきやすい面を持っているということに自覚がなくなる。でも、そのプライドが傷つけられると、すぐに自分の無能さを嘆きだす。極端から極端へと動くのよ。良い面と悪い面の両方が介在するという感覚が希薄だともいえるの。だからあなた自身に向けられた非難や批判には、すぐにかっとなり反撃するか、敗北感に浸っていじけるかのどちらかしかない。立ち直ろうとするとき、自分以外の誰かに褒めてもらったり、認めてもらったりしてもらうことが必要で、決して自分ひとりで自信を回復することができない」 「だからなによ!」夕子は泣き叫んだ。「認めてもらうためには努力が必要なのよ。あなたになにがわかるっていうの!」 「わたしのせいにするのは勝手だけど、あなたはいまひとかけらも反省の念を抱いてないでしょう? 責めているわけではなくて、あなたがそういうものだと理解してほしいの。自己愛性人格障害は、失敗しても真摯《しんし》に反省することがなく、敗北の痛みや辛《つら》さに気づきにくいっていう特徴もある。才能がないと、退行して子供っぽく振る舞うことで周囲の気をひこうとするけど、あなたの場合はいろんな才能に恵まれてる。だから周囲への優越感を手にいれるために、休む暇もなく努力しつづける。休息をとることはたちまち不安に変わるから、耐えられない。そうじゃない?」 「ええ、そうよ……。けれど、わたしは本当に素晴らしいの。それは否定できないでしょう? 現に、メフィスト・コンサルティングっていうこの世を超越した存在がわたしを迎えたがっている。岬美由紀がこんなに必死にわたしの身を案じてくれてる。それだけでもすごいことでしょ?」 「あなたはいつもそうやって、つきあう相手の価値で自分の価値も高まったと感じる。だから出会う相手をいつも理想化しては、意にそぐわないとたちまち軽蔑《けいべつ》するという行為を繰り返す。いつも相手が強い立場で、自分がその強い存在から愛され保護されるか弱い立場となることをまず望んで、それが果たされないと反撃して相手をやりこめて、自分の理想の相手はこの人ではなかったと自分を納得させるの。あなたにしろわたしにしろ、長所と短所の両方を持っている普通の人間なのよ」 「わたしには特別な人づきあいがある、それは間違ってないでしょ! あなたなんかより、もっと有名ですごい人とも知り合ったし、メール交換だってときどきするし……」 「あなたが他人と関係を持つとき、それは自尊心を支えるために誰かを利用しているにすぎない。本当に心から通じ合うことはない。なぜなら、人間はあなたひとりしかいないと錯覚してるから。周りはすべて、空想の世界か幻と変わらないと感じているからよ」 「……そうよ」夕子は声を震わせて泣いた。「その通りよ! 本当のことをいえば、人に共感することも、思いやりを持つことも、感謝することもできない。わがままなんかじゃないのよ。本当にできないの。そんな道徳観念は綺麗《きれい》ごとにすぎないと思ってたし、みんなうわべだけ調子を合わせてるんだと思ってた……。でもどうやら違うらしいってわかったのは、最近のこと。本気で共感したり、思いやりを持ったり、感謝する人もいるらしいってことが、薄々わかってきた……。そんなの馬鹿か単純な奴だなんて笑い飛ばすことはできても、内心悔しい。……わたしにはわからないよ。わからないんだって」 「夕子。失望しないで。あなたはそういう人間だとわかることで、次の一歩が踏みだせる。本能でわからなくても、他人は理解しているに違いないし、自分もジェスチャーだけでなく本気で理解するように努力しよう……そういう思いが芽生えてくれればいいの。決して諦《あきら》めないで。あなたの人生はまだこれから始まるのよ。自分だけが恵まれない立場でないとわかれば、善悪の区別もついてくる。あなたの才能は、詐欺なんかに費やすものじゃないわ……」 「だけど……わたし、もう契約しちゃったのよ。メフィスト・コンサルティングと。あなたのいう、詐欺師の集団に……」 「心配しないで。きっと助けに行く。わたしが助けだすから……。それまで自我を保って。自己愛性人格障害の悪い面に引きこまれないで。あなたがあって人格があるのよ。その逆では決してありえない」  夕子は大粒の涙を目から溢《あふ》れださせていた。「岬……美由紀。どうしてわたしに……そこまで……」 「あなたはわたしの娘よ」 「娘……? ひとつしか歳ちがわないのに」 「もう心に決めたの」  岬歩美。いい名ね。母……。  そういって、阿諛子は息を引き取った。  あのときのことは忘れない。  誰にも、あんな不幸な人生を歩ませない。  夕子にも……。  いきなり水柱が立ち昇った。  爆発のように水しぶきを飛び散らせ、渦巻きはいっそう激しくなった。  底部が近い。美由紀はそう悟った。  排水口がどれだけの大きさかは知らないが、その付近で生じる吸引力は想像を絶するものに違いない。  実際、水面はしきりに泡立ち、間歇《かんけつ》泉のごとく吹きあげる無数の水柱のせいで、視界がふさがれつつあった。  その霧の向こうで、夕子の悲鳴に似た声がしていた。「助けて! 美由紀ー!」 「流れに身をまかせて、逆らわないで!」美由紀は怒鳴りかえした。「信じて。あなたはきっと立ち直れる!」  意識を保つことができたのも、そこまでだった。  波しぶきが頭上に振りかかり、息ができなくなった。  視界がふさがれ、水を飲んでしまい激しくむせた。  意識が遠のいていく。  水中の気泡がフェードアウトし、美由紀は暗黒の世界に落ちていった。 [#改ページ]   絶望の記憶  どれだけの時間が過ぎたのか、判然としない。  寒い。身も凍える寒さが身体を包んでいる。  美由紀が感じたのは、固いコンクリートの表面だった。  うつぶせに寝ている。  てのひらと頬に、この材質特有のざらつきを感じる。  目を開けた。  焦点の合わない視界が、しだいにはっきりしてくる。  失神状態から回復するときに特有の、ふいにこみあげてくる嘔吐《おうと》感があった。  気分が悪い。  だがそれは、まだ生きていることを表していた。  コンクリートの部屋。  窓もなにもない。  床には、そこかしこに水たまりができている。壁面には緑のコケがこびりついていた。  床が傾斜しているとわかる。水|勾配《こうばい》のようだった。  すると、ここはあの竪穴の底か。  すぐ近くに、鉄網の嵌《は》められた排水口があった。格子網のきめは細かい。間違っても人間が吸いだされることはないだろう。  それを確認すると、美由紀はふうっとため息をついて、ふたたび目を閉じた。  夕子の姿はないが、彼女の無事がわかっただけで充分だった。  いまはそれ以上は考えられない。というより、思考を働かせたくない。  わたしは思いだしてしまった。悪夢の記憶を。あんな過去を背負って生きていきたくはない。  しばらく静寂だけがあった。  やがて、鉄の扉が開く重苦しい音がした。  近づいてくる靴の音がする。軽く響く音。ハイヒールのようだった。  誰なのか、確かめる気も起きない。  それよりも、まだ死んでいないことのほうが腹立たしかった。  生き延びるなんて。悔しくてたまらない。  いや、あの記憶が戻るぐらいなら、いままで何度か襲った危険に打ち負かされておいたほうがよかった。生還した喜びを味わっていたことが、いまではただ虚《むな》しく感じられる。  わたしはこの世に、生まれてくるべきではなかった。  ハイヒールが腹部に押しつけられ、ぐいと持ちあげられる。  美由紀は転がり、仰向けになった。  たったそれだけの動作でも、全身に激痛が走る。またもや意識が遠のきそうになった。  はるかに高い天井。  竪穴の深さは、二百メートル以上にも及んでいるようだった。  その視界に、ひとりの女がいる。  外国人だった。  金髪に縁取られた白い顔。大きな瞳《ひとみ》に高い鼻。この場にそぐわないドレススーツとあいまって、モデルのようでもあった。  どこかで見た顔……。  女は無表情だった。  感情を押し殺していることだけはわかる。  なにも読み取れないのは、セルフマインド・プロテクションで表情の不随意筋の動きを抑えているからに違いなかった。 「初めまして」女は流暢《りゆうちよう》な日本語を竪穴のなかに響かせた。「正確には、会うのは二度目ね。わたしにとっては三度目。わたしがジェニファー・レインよ」  ジェニファー・レイン。この女が……。 「ああ……そうか」美由紀はつぶやいた。「サウジアラビアのメッカで見かけたわね。あなたはアメリカの大統領と一緒に……」 「そう」ジェニファーはいった。「損害はとてつもなく大きかったわ。イラク戦争では合衆国に多大な利益をもたらすはずが、あなたのせいで中途半端なことになってしまって」 「米国政府が……クライアントなの?」 「というより、資本提携しているの。大統領の一族とね。メフィスト・コンサルティング・グループのなかでも、マインドシーク・コーポレーションはほかのグループ内企業とは異質な存在なのよ。わたしたちはコードネームで呼び合ったりしない。人類史をおかしなほうに向かわせる危険分子の排除を、ためらったりしない」 「危険分子?」 「あなたのことよ。岬美由紀。ファントム・クォーターで一度見ただけのインヴィジブル・インベストメントをはっきり視認できるとはね。あなたがいなければ、こんなアジアの小国、縄文時代に逆戻りしていたはずだったのに」  あのパーフェクト・ステルスによるミサイル攻撃もこの女のしわざか。向こうにとっては、それが二度目の出会いだったわけだ。  ふいにおかしくなり、美由紀はふっと笑った。  肺に痛みが走ったが、それでも笑わざるをえなかった。  ジェニファーが眉《まゆ》をひそめた。「なにがおかしいの?」 「さあ……ね。いままで散々脅し文句を受けてきたけど、いまほど死ぬのが怖くないときは、ほかになかったわ。むしろ喜びを伴っているほど……」 「……ああ。そうね。記憶が戻ったのはショック?」  言葉で言い表せるはずもない。胸が張り裂けそうだ。 「ええ。とてもね」美由紀は喉《のど》にからむ自分の声をきいた。「今度こそとどめを刺せて、嬉《うれ》しいでしょうね」 「同意したいところだけど、残念ながらそうもいかないの。判定官が来ている以上、ルールは遵守しなければならない」 「……どんなルール? いまさら人殺しは控えろって?」 「いいえ。特別顧問候補および、特別顧問補佐となった人間の要請は、原則的に受諾すること。拒否する場合はグループの十二人議長《トウエルヴ・チエアメン》の了承を得ること。そのふたつの規則にひっかかるからよ。わたしとしては申し立てをしてでもあなたを殺《あや》めたいけど、それまであなたを拘束する権限もない」 「誰の要請で……」 「西之原夕子のよ。正式に特別顧問候補となったの。なんの酔狂か知らないけど、あなたを生かしていくように求めてきた」  その言葉は、美由紀の胸にずしりと響いた。  夕子は、メフィスト・コンサルティングに加入した。それも、美由紀にとって最も敵対的な存在であるマインドシーク・コーポレーションに。  それでも彼女は、わたしの命を救った。彼女自身のためだろうか。わたしは、彼女を救うと約束した。彼女はそれに期待して、わたしを生かさねばならないと考えたのだろうか。  いや。夕子は最終的に、メフィストに加わることを喜ばなかった。彼女はほかに希望をみいだそうとしていた。  メフィストに加わる決心をしたこと自体、わたしを救うためだとしたら……。  ジェニファーが冷ややかにいった。「不安そうな顔ね。なにをそんなに心配してるの? 夕子の身を案じているのなら、要らぬ世話よ。あなたに恩義を感じてのことじゃないから。というより、本気で情を感じることがないのが自己愛性人格障害だって知ってるでしょ?」  美由紀は無言で、果てしない竪穴の先を見つめていた。  夕子は、心を偽ってなどいない。わたしの目は、最後まで彼女の表情をとらえていた。  彼女は本心をさらけだしていた。おそらく人生でただ一度だけ、わたしに対して。  なぜかジェニファーは、小さくため息をついた。「自己愛性人格障害を治すためになすべきことが、症状を本人に悟らすっていう、そのていどとはね。がっかりしたわ」 「……落胆したの? どうして?」  わずかに苛立《いらだ》ちを漂わせたジェニファーは、すぐに無表情の仮面をまとい、腰に手をやって美由紀を見おろした。「あなたに話すことなんて、何もないわ。時間がないの。社会復帰してもらうために必要な手続きを、さっさと済ませましょ」  扉が開く音がする。  歩み寄ってくる靴音。今度も、女性のようだった。  夕子がポアと呼んでいた女が、看護師のような白衣姿で、美由紀のすぐ近くに膝《ひざ》をついた。手にしてきたカバンから機材を取りだし、なにやら準備に入っている。 「なにをするの」と美由紀はきいた。  ジェニファーが静かに告げた。「あなたの記憶障害は一過性脳虚血発作によって生じてると考えられる。だから同じ症状を起こして、脳の同じ部位の記憶を飛ばし、元どおりの状態にするの」 「わざわざそんなことを……」 「いまのままでは生きていくのも辛《つら》いでしょ。蘇《よみがえ》った記憶に耐えかねて自殺したり、注意散漫になって事故を起こしたりしないように、あなたの自我を安定させる。わたしとしてはあなたがみずから命を絶つことになんの躊躇《ちゆうちよ》もしないけど、ルールに従ってのことよ」 「わたしはそこまで弱くなんかないわ」 「どうだか。ねえ岬美由紀。あなたは抑圧されたトラウマ論に対し、全否定の立場をとっているわよね」 「認知心理学が発達したいま、そうみるのが最も科学的よ」 「そう信じること自体、過去の辛さから逃げたがっている証拠かもしれないわよ」 「そんなの……ありえないわよ。わたしは……」  言葉に詰まった。  とめどなく押し寄せてくる記憶の波。ある一時の出来事。  しかしいかなる人生を歩もうと、すべてを無に帰してしまうほどの過酷な時間……。  いつの間にか、美由紀の目には涙が溢《あふ》れていた。泣くことしかできない自分がいた。  ジェニファーはふんと鼻を鳴らした。「ほら。もう耐えかねているじゃないの。ひとまず記憶からオミットしなきゃ精神疾患が起きるわよ。もっともいずれ、記憶は蘇る運命にあるだろうけど」  いずれ……。  それはいつなのだろう。  だが、問いかけている時間はなかった。  ポアが注射器を手にして、顔を近づけてきた。その針を美由紀のこめかみに当てる。  ちくりとした痛みを感じた。  ほどなく意識が遠のいていく、その感覚があった。  朦朧《もうろう》とする意識。視界もぼやけつつある。  と、そのとき、竪穴の底に、三人めの女が入ってくるのを見た。  その顔をはっきりと認識することはできない。だが、その女が西之原夕子であることはあきらかだった。せかせかした足どり、さかんに髪を撫《な》でつけるしぐさ。白いコートを着ているように見えたが、どうやらバスローブのようだった。 「美由紀!」夕子の甲高い声が呼びかけてきた。「美由紀!」  ジェニファーが振りかえって告げる。「寝てなきゃ駄目って言ったでしょ、夕子」 「どいてよ。美由紀、生きてるの? しっかりしてよ! わたしを助けてくれるんでしょ?」 「夕子」ジェニファーは苛立ちをあらわにした。「教育《エデユケーシヨン》を受けるまでおとなしくしてなさい」  ポアが立ちあがり、夕子に向かっていく。夕子は怯《おび》えたように立ちすくんだ。  それでも夕子のまくしたてる声は、美由紀の頭のなかに響いてきた。「美由紀! てめえ、またわたしを見捨てるつもりかよ!? 結局口だけかよ? 大地震でみんなが死ぬのに、てめえ見過ごす気かよ!?」 「お静かに」ポアの声が低く告げた。「もうなにを言っても無駄です。あなたはもうレイン女史の所有物も同然の立場にあるのです。さっきアントニオが説明したように、機密事項を外部に漏らすことは特殊事業課において……」  夕子が発する、絶叫も同然の甲高い声がポアを圧倒した。「美由紀! その気があるならペコポンに来い! 宇宙探偵の時間だと幸太郎に伝えとけ! きょうにも地震が起きるってのに……」  ジェニファーが怒鳴った。「黙らせて!」  ポアが夕子の腹部をこぶしで殴った。  うっ、と呻《うめ》いた夕子の声を、美由紀は最後に耳にした。かろうじて繋《つな》ぎとめていた意識は急速に薄らぎ、美由紀は深い闇に落ちていった。 [#改ページ]   事故死 「岬先生」男の声がする。「岬先生。起きてよ」  美由紀ははっとして目を開けた。  まばゆい陽射しが視界に飛びこんでくる。  身体を起こした。  ベンチに座っているとわかる。  外気、それも夏の朝の、まだ気温のあがらないすがすがしさが身体を包んでいた。  そこは広々とした公園だった。  港の埠頭《ふとう》がみえる。そして、古めかしい赤レンガの倉庫が連なっていた。  行き交う人の姿はまばらだが、雲ひとつない青空が広がっている。  たぶんこれから、大勢の人々が繰りだしてくるだろう。それが横浜という街だ。  ひとしきり辺りを見まわしてから、ようやく幸太郎に目をとめた。  幸太郎は心配そうに、美由紀の顔を覗《のぞ》きこんでいた。 「だいじょうぶ?」と幸太郎はきいた。「こんなところで寝てるなんて。びっくりしたよ」 「幸太郎さん……。どうしてここに?」 「聞きたいのはこっちだよ。きのう、岬先生の部屋に泊めてくれて……でもマンションの周りを見回るとかいって、そのまま上がって来なかっただろ?」 「ええと……そうだっけ」 「心配したけど、キーを持ったまま外出もできないし、そのまま休ませてもらったんだけど……。なにか用でもあったの? ここで待ち合わせるのなら、連絡してくれればよかったのに」 「そうね、ごめん。あ、それで西之原夕子は……」  幸太郎は肩をすくめた。「すっぽかされたみたいだね。もう十時近いよ。姿はみせてない」  夕子が約束を反故《ほご》にした。  いや、そうではない。彼女は来られなかったのだ。もう夕子は、一般人ではないのだから。  わたしは夕子を助けられなかった。彼女がメフィスト・コンサルティングに入るのを止められなかった。  自己愛性人格障害から立ち直るきっかけを与えられたことが、せめてもの希望かもしれない。だがそれも、わたしの一方的な思いこみかもしれない。彼女がそれを、自立の道と信じることがなければ、回復するのも難しい。  だが、どうも前後の記憶が判然としない。  夕子はどうして、心変わりをしたのだろう。  水位の上下する竪穴のなか、救命胴衣で浮かびながら、彼女はわたしにキスをした。ユダと同じく裏切りのキスかもしれない、夕子はそういった。  アントニオに飲まされた薬品の効果で眠りに落ち、気がついたら夕子に口づけされて、急速に排水がおこなわれる状況のなかで、彼女の人格を説いて聞かせた。  その後、またも失神して、目が覚めたらここだった。  それだけのことだったろうか。  たしかわたしは、ジェニファー・レインに会った。  彼女はあのイラクでのトランス・オブ・ウォーの広まりを陰で画策していた、そううそぶいていた。  けれどもそれが、竪穴に落ちる前のことだったのか、それとも後の出来事かははっきりしない。  夢ではなかったはずだ。記憶にしっかり刻みこまれている。  想起しようと目を閉じたとき、今度は妙な景色が浮かんできた。  公営住宅。五階建ての古びた鉄筋コンクリート。緑豊かな地域にある。たしか神奈川県内……。  美由紀は呆然《ぼうぜん》としながら目を開けた。  幸太郎がきいた。「なにか思いだした?」 「ええ。でも……」  なんだろう。  以前に見た風景。というより、前にもこんなふうに頭に浮かんできた記憶の断片。景色だけでなく、場所もわかっている。相模原《さがみはら》市……。  頭痛がする。  なにか肝心なことを忘れている気がしてならない。  そのとき、ばたばたと駆けてくる靴音がした。 「ひっ」と幸太郎が声をあげた。「まずい。逃げたほうがいいよ、岬先生」  見ると、公園に隣接する駐車場のほうから、警官が大勢走ってくる。  その先陣をきっているのは千葉県警の福原警部補だ。  ほかにも見知らぬ私服が何人もいる。  駐車場には知らないうちに、無数のパトランプが瞬いていた。駐車中のオロチはパトカーに囲まれている。不審車両を確保するため、サイレンを消して接近したのだろう。  逃走しようとする幸太郎の腕をつかみ、美由紀は引き留めた。「待って」 「どうしてだよ……。捕まっちゃうよ」 「あなたは窃盗の主犯じゃないでしょ。やましいことがないのなら、堂々としていればいいわ」 「けど……」 「心配しないで」  警官らが目の前にまで迫ってきた。 「鳥沢幸太郎さんだね」と福原が厳しくいった。 「は、はい」幸太郎は観念したように、情けない声をあげた。「そうです」  美由紀は話しかけた。「警部補……」 「あ、これはどうも。岬先生も一緒でしたか」福原の態度は、一転して和やかなものになった。「またも人知れず救出劇を演じておられたとは。勇気と行動力には感服しますが、ぜひ今度からは私どもをもっと信頼していただきたいですな。こう見えましても、私は通報には迅速に対応するほうなんですよ」 「救出劇……?」 「ええ。この鳥沢幸太郎さんを京城麗香から救いだしたんでしょう。オロチも無事のようだ。ご協力、感謝申しあげます」  美由紀は幸太郎を見た。  幸太郎も、口をぽかんと開けて美由紀を見かえした。 「あのう」幸太郎は福原にきいた。「西之原……いえ、京城麗香さんがなにか自白したんですか?」 「自白? いえ。しかし、逃走中にあのようなことになるとは……」福原は妙な顔をした。「おふたりともまだ、ご存じない?」 「なんですか」美由紀はたずねた。「事故って……」 「けさ早く、京城麗香は盗んだワンボックス車に乗り、アクアラインの反対車線を暴走しましてね。十トントラックと正面衝突し、即死しました」  幸太郎が衝撃を受けたようすで、悲鳴に似た声をあげた。「即死!? そ、それは、本当に……。けど、ヘンだよ。彼女は免許を……」  美由紀は幸太郎の肩にそっと触れた。  刑事たちが去ったら、話したいことがある。しぐさでそう伝えた。 「それで」美由紀は福原を見た。「遺体は、京城麗香と確認されたんですか?」 「むろんです。すぐに司法解剖をおこない、結論もでました。彼女はつい先日、歯科の検診を受けてましてね。そこで撮ったレントゲン写真によると、鼻に人工軟骨を入れていたり、顎《あご》を削った痕《あと》があったりと、ずいぶん金をかけて美容整形していたようですな。遺体も損傷が激しかったのですが、やはり整形の痕がありました。DNA鑑定の結果はまだですが、本人に間違いないでしょう」 「京城麗香っていうのは、どんな人物だったんですか?」 「それを調べるのはこれからです。歯科医に提出した保険証も偽造とわかりましたし、株式会社レイカ設立のための各種書類も本物ではなかった。とはいえ、それらは彼女自身の手製のようで、背後に黒幕がいる可能性はほとんどないと思われます。なにしろ彼女の住んでいた部屋から、偽造に使われたパソコンやプリンター、コピー機が山ほど押収されてますからね」 「というと、住居があったわけですか」 「当然でしょう。偽造免許証の住所でわかりました。墨田区のワンルームマンションでしたね。実家だとか、血縁についちゃまだわからない。たぶん偽名でしょうから、本名も割りださねば。とはいえ、家宅捜索のおかげで鳥沢さんの容疑が晴れたことは、不幸中の幸いでした」  幸太郎は目を見張った。「俺はもう、無罪放免ですか?」 「あなたも人質だったんでしょう? 彼女のメモにそう書いてありましたよ。ハローワークで男性をひとり人質として確保して、盗みに協力させる。拒否すれば家族の命はないと脅す……メモにはそうありました。計画的犯行ですな。しかし幸太郎さん、ご安心ください。彼女には共犯などいなかったから、ご実家には危害ひとつ加えられていません。たまたま発生した地震で連絡がとれなかったのはお気の毒ですな。ふつうなら、すぐにでも無事を報《しら》せられたのに」 「ええと……そうですね。まったくです」幸太郎はそういって、美由紀をちらと見た。  美由紀も幸太郎に微笑みかえした。  福原は敬礼をした。「では、クルマのほうの検証に戻りますので、いったん失礼します。のちほど、お話をうかがいますよ」 「はい」美由紀はうなずいた。「こちらでお待ちしてます」  警官らは踵《きびす》をかえし、駐車場に向かって歩き去った。  幸太郎は悲痛のいろを浮かべた。「事故だなんて。夕子さんは運転なんかできなかったはずだ」 「そうよ」と美由紀はいった。「死んだのはまったくの別人。メフィスト・コンサルティングの工作にすぎない」 「え? そんなこと……」 「できるの。人工地震を起こすほどのやつらでしょ。それぐらい、わけないと思わない?」 「どうだろ……。けど、信じたくないよ。夕子さんが死んだなんて……」  メフィスト・コンサルティングは、候補をスカウトする時点で替え玉を用意する。  友里佐知子にもふたりの影武者がいた。  本人が整形を受けていたため、影武者の遺体に整形の痕跡《こんせき》があっても問題視されないという点も、友里のときと同じだった。  マンションの部屋も、丸ごと偽装にすぎないのだろう。  西之原夕子は、あの株式会社レイカとして借りた一室以外に住む場所などなかった。  いつかは別世界にいざなわれる、彼女はそう信じていた。それゆえに、この世での安住の地など求めなかった。家がなくても平気だった。 「夕子さん」幸太郎は泣きだした。震える声でつぶやきながら、海を見やった。「もう会えないのかな。せめてもういちど、買い物につきあってあげればよかった。ドライブしてあげたかった……」 「死んでないってば。夕子は現に……ジェニファー・レインと一緒にいたし」 「……会ったの? 夕子さんと?」 「ええ。思いだした。意識を失う寸前、彼女が近づいてきたのを見た……」 「夕子さんは、どうしてた?」 「わたしに……怒りをぶつけてた。助けると約束したのに、わたしは今度も……」  辛《つら》い気分になり、美由紀は言葉を切ってうつむいた。  ひょっとしたら彼女は、わたしに対して最後の希望を抱いてくれたのかもしれない。一瞬だけでも、心を開きつつあったのかもしれない。  その心をふたたび閉ざしてしまったのはわたしだ。わたしはまたしても、彼女を裏切ってしまった。  汽笛が響いた。  ゆっくりと出港していく船がある。その煙突から立ち昇る白煙が、空へと消えていく。  空が遠かった。  秋のきざしか。それとも、わたしにとって空が遠のいた、その事実ゆえのことだろうか。  静けさのなかで、美由紀の感じている失望を悟ったらしい、幸太郎は物憂げにつぶやいた。「大地震の震源地も、わからずじまいだね」 「そうね……」  関東地方を巨大地震が襲う。夕子は、きょうにもそれが起きると言っていた。  マンションの駐車場でアントニオという男に連れ去られた時点で、午前零時をまわっていた。日付はきょうになっていた。地震が起きるのはこれからだ。  だがその震源もあきらかではない。未曾有《みぞう》の大災害が起きるとわかっていて、なんの手段も講じられない……。  絶望とともに悲しみがこみあげてきた。美由紀はこぼれおちそうになった涙をぬぐった。  こんなふうに希望が絶たれるなんて……。わたしはいったい、なにをしたというのだろう。夕子ばかりか、大勢の人々の命を危険に晒《さら》そうとしている。  今度こそ、メフィスト・コンサルティングが勝利をおさめるのか。何度もぎりぎりの賭《か》けで踏みとどまってきたのに、わたしの力が及ばないばかりに……。 「岬先生」幸太郎がきいてきた。「夕子さんが東京壊滅を望んでるなんて思えない。彼女は無茶をするようでいて、実はやさしいところがあるんだよ。他人の命を危険にさらしたりはしない」 「あなたがそう思うだけかも……。でも、そうね。わたしも彼女に命を救われたんだし……。夕子がメフィスト・コンサルティングに入らなければ、わたしは殺されてた」 「ねえ、そんな夕子さんが大地震が起きるのを見過ごすかな? 岬先生に期待をかけてたのなら、なんらかの方法で接触してくるかも」 「もう無理よ。夕子の身柄は、ジェニファー・レインの手中にあるし」ふと、美由紀の脳裏を妙な感触がかすめた。「あ。だけど……」 「なに?」 「夕子、おかしなことを言ってたわ。ペコポンがどうとか、宇宙探偵の時間……とかって……」  幸太郎は目を見張った。 「み、岬先生」幸太郎は緊張の面持ちでつぶやいた。「確認したいことがあるんだけど……。漫画喫茶に寄る時間ある?」 [#改ページ]   至近距離  インド国籍の掘削船、アヴァニ号。全長二百七メートル、幅三十七メートル。満載喫水九・二メートル。すなわち、十メートルの深さがある海なら自由に航行できる。  中央に高さ百メートルを越える掘削|櫓《やぐら》を擁し、周囲を四本の巨大なクレーンが囲む。ドリルパイプ置き場の近くには七階建ての甲板タワーがあって、この鋼鉄の人工島全体を見渡せる。  ジェニファー・レインはその最上階のバルコニーに立ち、夕陽に照らされてオレンジいろに染まった大海原を眺めていた。  東京湾沖、陸から三十一・三キロメートル。ここの真下を通る海底活断層は房総半島南部の海域にまで延びている。日本の国土交通省も関東地方に大震災をもたらしかねない危険な活断層と認識しているが、ここ数年は微震すら発生していないため安心しきっているだろう。  実際には、その均衡を人の手によって崩しうることも理解できていない。  掘削班はすでに断層の奥深くにまで竪穴を掘り進んでいる。あとは七百メガトンの破壊力を持つベルティック・プラズマ爆弾を、水中スクーターに搭載して運び、竪穴の中に投入するだけだった。  その作業も、海中工作班によって着々と進められている。完了しだい、ヘリポートに待機中のツインローター式大型ヘリで退避せねばならない。  海中工作班の大部分は爆発の瞬間までここに残ることになるだろう。計画に犠牲はつきものだ。全員が退去してしまったのでは自然災害に見えなくなる。この不自然な掘削船がなんの作業に従事していたかが洗いだされ、ほどなく人工地震の疑惑が再燃してしまうだろう。  歴史上かつてないほど広範囲にS波が伝わり、首都圏全域を壊滅に至らしめる巨大地震だ。これが人為的なものだと記録に残るのはまずい。  シルクのドレススーツに泳ぐ潮風は心地よく感じられたが、陽が傾くにつれて寒くなってきた。  ジェニファーはバルコニーからぶらりと室内に戻った。  赤い絨毯《じゆうたん》の広々としたリビングルームは、ダンスホールのように天井が高く、ソファも壁ぎわに寄せてあって部屋の中央にはなにもない。ふだんならなにもない空間を眺めるのみだが、きょうは新人の教育《エデユケーシヨン》という余興がある。  床に犬のように這《は》い、びくつきながら身をちぢこませているのは、手術着のような無地のワンピース一枚を羽織った西之原夕子だった。  さすがに応《こた》えてきているらしく、無駄口も叩《たた》かなくなった。身体を痙攣《けいれん》させているのは、炭素電極棒が効いて全身の麻痺《まひ》が始まっているからだろう。  夕子の周囲には、頭部からつま先までをゴム製の防護服ですっぽりと覆った四人の男が立っていた。四人は夕子の周りをゆっくりと回りながら、両手に一本ずつ握った長さ一メートルほどの炭素電極棒を突きだし、夕子の肌に触れては感電させる。夕子はそのたび、悲鳴に似た叫びをあげて身体をのけぞらせる。  見慣れた儀式だ。目新しくもない。見物する喜びもない。  ジェニファーは退屈さを噛《か》みしめながら、窓際のミニバーに向かった。グラスにワインを注ぎいれ、葉巻の先で掻《か》きまわす。その湿った葉巻に火をつけ、濁った煙を胸の奥にまで吸いこんだ。  教育班の四人は、感電する夕子の反応を見ては、冷静な口調で交互に報告をする。傍|脊椎《せきつい》交感神経部、正常反応。舌下神経、頸部《けいぶ》交感神経幹、正常反応。骨盤|末梢神経《まつしようしんけい》、正常反応……。  そろそろ小休止ね。ジェニファーは歩み寄った。あまり連続すると脳神経への負担が大きくなりすぎて、感覚神経繊維にダメージを与えてしまう。  合図を送ると、四人は電極棒を夕子の身体から離し、部屋の隅に退いた。  床に横たわった夕子の姿は哀れなものだった。発汗が促進させられた肌はびしょ濡《ぬ》れになっていて、血管が病的なほどに浮きあがって脈うっている。目の瞳孔《どうこう》が開きっぱなしで、涙と一緒に鼻水と涎《よだれ》が絶え間なく溢《あふ》れだしている。陸にあげられた魚のごとく、口がぱくぱくと開閉しては、苦しげな呼吸音を漏らす。  それでも、まだ意識はあるようだ。ジェニファーはきいた。「気分はどう?」 「なんで……」夕子は蚊の鳴くような声でいった。「なんで、こんなことを……」 「説明してもわからないでしょうけどね。神経シナプスを作り変えてるの。受容器電位をわずかに上まわる電圧で細胞の働きをコントロールして、脱分極が頻繁に起きるようにする」 「だから……それがいったい何の……」 「寿命が延びるのよ。長生きできるわ」  ふっ。夕子が吐息を漏らした。  それから夕子は、ぐったりと寝そべったまま、小刻みに身を震わせて笑いだした。  ジェニファーは面食らった。全身が麻痺状態に近い現状で、笑いの衝動が起きるとは意外だ。 「なにがおかしいの?」とジェニファーはきいた。 「べつに。……なにかと思ったら、これ、アンチエイジング? 死ぬほどの思いをして若づくりしろって? 馬鹿じゃないの。わたし、皺《しわ》伸ばしとかしてるジジババとかって嫌い。見るからに不自然でキモい」 「特別顧問となって働くからには、老化を可能な限り遅くしなきゃならないの。見た目だけじゃなく、体内すべての細胞の劣化を遅らせることができるのよ」 「キモ。最低。ジェニファーさん、ひょっとしたらあなたも百歳過ぎてるババアとか?」  かちんときたが、それを言葉にはしなかった。ジェニファーは身を退かせながらいった。「エデュケーションを続行」  四人がまた夕子を取り囲む。儀式は再開した。  電極棒をあてたときのビリッという音、焦げ臭い匂い、そして夕子の悲鳴。  実際には、この作業の目的は体内変化の促進だけではない。メフィスト・コンサルティングに生涯をささげる、その誓いの代償を神経細胞に刻んでいるのだ。  自己愛性人格障害が特別顧問に向いているとはいっても、本来は協調性に欠け、忠誠心など持ちにくいとされる人格だ。そのままでは雇用できない。身柄を組織に繋《つな》ぎとめておく物理的手段が必要になる。  その手枷《てかせ》足枷があればこそ、わたしはマインドシーク・コーポレーションの特別顧問をつづけている。  いや、わたしに限らず、グループ内の正社員は誰でも多かれ少なかれ……。 「ばーか!」ふいに夕子が怒鳴った。  教育班らが驚いたようすで静止する。 「な……なにが特別顧問よ」夕子は息も絶えだえに告げた。「ふざけろっての。そんなものに就職したいなんて誰がいった?」  憤りがこみあげる。ジェニファーは苛立《いらだ》ちとともにいった。「いまさら契約の破棄はできないわよ」 「勝手にそう思ってたら? わたしはね、自分や幸太郎が警察に追われないようにしてくれるっていう、あなたたちの工作とやらに期待しただけ。もうそれ済んだんでしょ? じゃ、もうここまでよね。お付き合いは終わり。言っとくけど、あなたたちがここで何をしようとしてるのか、もうばらしちゃったし。人工地震だっけ? そんなのもう無理。さっさと尻尾《しつぽ》巻いて逃げだしたら?」 「立場がよくわかっていないようね。誰に何を暴露したっていうの? あなたはずっとわたしたちの監視下にあったのよ」 「はん! これだから外人女は使えないっての。この船の名前がヒンディー語だったのが運の尽き。わたしが唯一知ってる外国語だっての」  船名のアヴァニは、たしかにヒンディー語で大地、地球という意味だ。だが、それがどうしたというのだ。 「誰かにその意味を伝えたとでもいうの? ハッタリはよしたらどう? わたしたちはあなたの言葉のすべてを、ひとこと漏らさずチェックしてる」 「ジェニファーさんって何か国語|喋《しやべ》れるんだっけ? あのアントニオとかっていう奴とも聞きなれない言葉で喋りあってたよねぇ。けどさ、ケロン語知らなかったってのは致命的だよね。それでよく東京に地震起こすなんて息巻いてられたよね?」 「なんの話? ケロン語ですって? そんな言語の分類、聞いたことが……」  そのとき、突きあげる衝撃が襲った。  地震ではない。掘削船がパイプを活断層に打ちこんでいるからといって、揺れが発生するものでもない。  だが、振動は大きくなる一方だった。轟音《ごうおん》とともに床が傾いた。教育班の四人がいっせいにバランスを崩し転倒した。  傾斜した床を滑ってくるバーカウンターを、ジェニファーは間一髪|躱《かわ》した。だが足を滑らせ、うつ伏せにつんのめった。腹這《はらば》いに床に叩きつけられ、傾斜した床を転がる。  なにが起きたというのだ。掘削はきわめて慎重におこなわれ、事故の発生する確率は万にひとつもないというのに。  警報が響き渡った。監視班のアナウンスがスピーカーから響く。「至急、重大、緊急。海上自衛隊護衛艦三隻接近。うち一隻、アスロック発射機よりミサイル発射。本船|右舷《うげん》に被弾、浸水中」 「浸水中ですって!?」ジェニファーは叫びに似た自分の声を聞いた。「どういうことなの。なぜ自衛隊が攻撃してきたっていうの!?」  だが、その問いに答える者はその場にいなかった。  反射的に、ジェニファーは夕子を見た。夕子は、ぼんやりとした目でこちらを見かえしていた。  夕子の口もとに、かすかな笑みが浮かんだ。  まさか……。  ジェニファーは立ちあがり、窓辺の手すりにしがみついた。  強化ガラスの向こう、アナウンスどおり海に浮かんだ三隻の船が見えている。たちかぜ、ゆうぎり、いかづち。いずれも進路をこちらに向けていた。  アスロック発射機から白煙とともにミサイルが射出された。と思った次の瞬間、掘削船の甲板に真っ赤な火柱があがった。一瞬遅れて、耳をつんざく爆発音が轟《とどろ》き、船体が激しく揺れた。その振動は、直下型大地震さながらだった。  室内にあったあらゆる物が倒れ、落下した。直後にガラスにひびが入り、轟音とともに砕け散った。  嵐のような突風が室内に吹き荒れる。風は熱を帯び、肌をも焼き焦がさんばかりの高温となった。煙が充満し、目に痛みが走る。  馬鹿な。こんな馬鹿なことが。ジェニファーは、薄くなった酸素を求めて喘《あえ》いだ。  視界がはっきりしない。室内をさまよい、なにかにつまずいて倒れそうになったところを、誰かにつかまった。  たぶん教育班の四人のうちのひとりだろう、そう思ったが、すぐに違うと悟った。ゴムの防護服を着ていない。  特殊な不燃素材の迷彩服。防弾ベストも羽織っている。自衛隊の装備とわかるが、やけにほっそりとした身体だ。背も高くない。  その顔を見たとき、ジェニファーはぎょっとして立ちすくんだ。  岬美由紀は、かつてないほどの至近距離でこちらを見つめ、冷ややかな口調でいった。「ケロロ軍曹の故郷、ケロン星の言葉でペコポンは地球って意味よ。よく覚えておくことね」 [#改ページ]   複雑性PTSD  美由紀はジェニファーの愕然《がくぜん》とした表情を目にしたが、それも一瞬のことだった。  ゴム製防護服で全身を覆った四人が、両手に金属の棒を手にして襲いかかってきた。強風と煙、轟音のなかでも、美由紀はその四人との距離を瞬時に見て取り、身構えた。  振りあげられた金属棒が天井に接触したとき、火花が散った。電流か。こちらは素手だ、棒に接触することはできない。ゴム製品といえば、ブーツの靴底しかない。  そう思いついた瞬間、美由紀は八極拳の足技を繰りだした。軽い跳躍からの二段|蹴《げ》りで先頭の男の電極棒を弾《はじ》き飛ばし、真正面から顔面を蹴り飛ばす。宙に浮いた電極棒、その握り部分にゴムが巻きつけてあるのを確認し、右手で受けとめた。  迫りくる三人に、美由紀は電極棒を剣に見立て、居合の三方斬りに入った。右手の男を頭上に打ち抜き、左手の男を真っ向から斬り下ろし、正面の敵の顎《あご》に突きを浴びせる。  てのひらに痺れを感じるほどの強烈な手ごたえがあった。棒の先端から火花が散る。防護服に守られていても、打撃の衝撃からは逃れられない。三人はそれぞれ後方に飛び、壁に背中を打ち付けて、床にのびた。  ジェニファーは怯《おび》えたような呻《うめ》き声をあげて、身を凍りつかせている。  美由紀は棒を携えたまま、夕子のもとに駆け寄った。  倒れていた夕子は、あちこちの筋肉を断続的に痙攣《けいれん》させていた。顔面神経|麻痺《まひ》に陥っているらしく、表情がない。 「しっかりして、夕子」美由紀はその場にしゃがみ、夕子を抱き起こした。 「遅い……」夕子がつぶやいた。「助けるって言ってたくせに……。もっと早く来てよ。大嫌い」  だが、夕子の浮かべた涙を見たとき、美由紀はその言葉の真意を悟った。  夕子は、わたしを信頼してくれていた。だから甘えの心をのぞかせている。依存したい気持ちに充分に応《こた》えてくれない親に腹を立て、暴言を吐く。それが夕子の、わたしへの態度だ。  もっと早く気づいてあげればよかった。夕子は誰よりも強く、わたしの救いを求めていた。  そのことをわたしに伝えきれなかった夕子を、どうして責められるだろう。人との意志の疎通に難があるからこそ、人格障害と呼ばれているのに。 「ごめんね」美由紀は夕子を抱きしめた。「もう絶対に遅れたりしないから」  声を震わせて夕子は泣きだした。幼い子供が泣きじゃくるさまに似ていた。  そのとき、幸太郎が室内に入ってきた。  幸太郎は夕子に目を止めると、あわてたようすで駆け寄ってきた。 「夕子さん」幸太郎はひざまずいていった。「無事かい?」 「こ、幸太郎」夕子が泣きながらつぶやいた。「なにやってるの、こんなとこで?」 「なにって、助けに来たんだよ」 「キャラ違うじゃん……。凡人でワーキングプアのくせに……戦場に顔だすなんて」  幸太郎は戸惑いのいろを浮かべたが、すぐに微笑した。「岬先生に便乗しただけだよ。でも心配ない、まかせてよ」 「はあ? わたしがあなたに、なにをまかせるって?」 「そのう、ヘリまで担いでいくぐらいのことなら、できるからさ」 「やめてよ。ミサイル飛んできてるのに。あなたの好きなアニメじゃないんだよ」 「わかってるよ。だけどさ……全力で走るよ。絶対に怖い思いはさせない。約束するから」 「……どうしてそこまで……」 「やると心に決めたんだよ」幸太郎は真顔でじっと夕子を見つめた。「こんな気持ちになる日がくるなんて、思ってもみなかった。死んでるみたいにぼんやり生きるしかないと思ってたけど、もうそうじゃなくなった。真剣になれるものが見つかったから」 「なによその、しゃべり場みたいな青臭いセリフは。真剣になれるものって、なんのこと?」 「青臭さに上塗りするとね……。きみのことだよ。自覚しなくても、きみになら必死になれるんだ。なぜかはよくわからないけど……」 「……ばっかじゃないの?」夕子の目に涙が溢《あふ》れた。「夢見すぎじゃん……。わたし整形してんのよ。元の顔なんて、ひとかけらも残ってない。作られた人形みたいなものなの。男ってガキよ。女ってものが演じる生き物だってことも知らずに、まんまと騙《だま》される。自分の理想を重ねて、美化しちゃう」 「違うんだよ。最初に会ったときはそうだったけど……もういまは違う。ほんの数日で、大事なことに気づいた。僕が人であるように、きみも人だ。どんなに美人でも、浮世離れしてても、なにより女の人であっても……きみは人だよ。うまく言えないけど、前はそれがわからなかった。いまは、きみのことを考えられるんだ。ひとりの人間として」  轟音《ごうおん》とともに断続的な振動が襲う。この世の終わりのような揺れのなかで、夕子は穏やかな表情を浮かべ、幸太郎の顔を見あげていた。 「馬鹿。キモすぎ……」夕子はつぶやいて目を閉じた。大粒の涙のしずくが頬をしたたり落ちた。  そのとき、美由紀は視界の端になんらかの危険をとらえた。  すかさず跳ね起きて電極棒を振りあげる。  火花が散り、ジェニファーの手からオートマチック式の拳銃《けんじゆう》が飛んだ。  悲鳴をあげたジェニファーが、手をかばいながら後ずさる。  美由紀は油断なく歩み寄った。「不意打ちばかりする人ね。それも飛び道具にばかり頼ろうとする。米軍けしかけてイラクで戦争させたり、見えないミサイル使ったり、今度は人工地震を起こそうとしたり。どれも陳腐な計画ばかりで、あくびがでるわ」  ジェニファーは怒りに燃える目で美由紀をにらみつけた。「あなたにわたしの何がわかるっていうの」 「さあね。メフィスト・コンサルティングのなかではレベルの低い特別顧問だってことぐらいは察しがつくけど。上層部に操られてるだけの存在ね」 「な……なんですって? なにを根拠にわたしを愚弄《ぐろう》……」 「根拠ならあるわよ。あなたはトランス・オブ・ウォーを利用してイラクで戦争を起こす計画を立てたけど、メフィスト・コンサルティングはそれ以前に、ほとんど同じ方法で日中戦争を引き起こそうと画策した時期があった。わたしは中国人の好戦的な群衆からトランス状態が長く持続する人材のみを抽出して、彼らの心理状態を中国じゅうに知らしめることで、開戦を防いだ」  一瞬、ジェニファーのセルフマインド・プロテクションが解け、驚愕のいろがあらわになった。 「日中戦争!?」ジェニファーは目を見張った。「あれを防いだのもあなただっていうの?」  やはり。美由紀はジェニファーに告げた。「イラクにおける開戦も、まったく同じ方法で阻止できた。その計画の指揮官があなたと聞いて、メフィスト・コンサルティングにおけるあなたの立場もおのずから明らかになったのよ。日中間の危機の詳細を知らされなかったあなたは、グループから重要視されてない。少なくとも、信頼はされてはいない」 「嘘よ。わたしをメフィストから孤立させようとしても無駄なこと」 「わたしの表情が読めるでしょ、ジェニファー? 嘘をついていると思う? 忠告しておくわ。あなたは自分を全能だと思いすぎる。目に映ったものがすべてだと信じすぎてる。でもね、見えるものがすべてとは限らないのよ」 「わたしを見下す気なの!? 夕子の気の迷いでこの船の情報を知りえたぐらいで……」 「あれは気の迷いじゃないわ。ジェニファー。まだ気づかないのね。夕子と幸太郎さんは相思相愛だった。強い恋愛感情で結ばれていたのよ」  美由紀はふたりをちらと振りかえった。幸太郎は真顔でこちらを見つめていた。その腕のなかで、夕子は眠るように静止していた。  しばらく沈黙があった。 「恋愛?」ジェニファーは憤りのいろを濃くした。「馬鹿をいわないで。自己愛性人格障害に、本物の恋愛など……」 「不可能だって言いたい? どうして? あなたがそうだから?」 「この……」 「あなたが誰も愛することができないから、夕子もそうだろうって? いいえ。みずからが自己愛性人格障害だと自覚が芽生えた時点で、本人は他の誰かによるサポートを必要としていると悟り、受けいれようとする。自分勝手で利己的、ナルシズムの塊である自分をありのままに愛してくれる男性を、拒む理由はない」 「そんな男、いるわけないでしょ」 「それがいたのよ。出会いって、数奇な運命よね。夕子の本質を知ったうえで彼女に好意を抱き、支えることに生きる意味をみいだす人がいた。それが幸太郎さんよ。夕子は真の愛を得た。だから人への信頼感を持つに至った。彼女自身、そんな心理状態は経験したことがなく、混乱した……。思いをどう伝えていいかわからなくなった」  その混乱のなかで、夕子はわたしにキスをし、ジェニファーに気づかれない暗号で情報を伝えようとしてきた。人に心を許すすべがわからず、彼女の行動は時に稚拙に、時に異様に見えた。  それでも、すべてには理由があった。夕子はわたしに心から期待を寄せていたのだ。  ジェニファーは歯軋《はぎし》りした。「夕子がわたしたちを裏切り、あなたを選んだっていうの? でまかせを言わないで。岬美由紀、あなたはメフィストの特別顧問並みに他人の感情を読み取る。けれども、恋愛感情だけは読めないはずよ」 「……ええ、そうね。その通りよ。だから真実に気づけなかった。夕子の幸太郎さんに対する気持ちも、幸太郎さんの夕子への想いも、わたしにはわからなかった。けれども、だからこそ確信してるのよ」 「わからないのに確信したですって?」 「そうよ」美由紀はうなずいた。「夕子がなぜ心変わりしたのか、わたしには理解できなかった。幸太郎さんが夕子のことを気にかける理由もね。本人の顔を見ても、わたしには理解できなかった。ということは、見抜くことができない唯一の感情がそこにある。恋愛よ」  落雷を思わせる地響きとともに、衝撃が船体を貫いた。  激しい縦揺れが襲い、爆発音が轟《とどろ》く。砕け散った窓の外、甲板に高波が打ち寄せていた。波しぶきは船上で砕け、室内に豪雨のごとく降り注いだ。  ジェニファーは、その嵐のなかで冷ややかな表情とともに立ち尽くした。 「気の毒に」ジェニファーはいった。「岬美由紀。なぜ恋愛感情だけがまったく読み取れないのか、その理由を考えたことはある?」 「ええ。最初は、わたしの経験が不足しているせいかと思ったわ。けれども、それだけが理由じゃないって気づいた」 「へえ。じゃあ何かしら」 「とぼけなくても、あなたたちは判ってるんでしょ。あの銀座の地下の竪穴でいちど思いださせて、またその記憶を呼びだせないようにしてくれたわね。なんなのか教えてくれる?」 「昨晩のことを覚えてるの?」 「断片的にね。ひどく取り乱したことは覚えてる。でもその理由は想起できない」 「じゃあ、思いださないほうがいいんじゃない? 本能的拒絶《インステインクテイブ・リジエクシヨン》が生じるきっかけになった過去の出来事なんて、忘れたままのほうが幸せでしょ」 「……わたしになにかトラウマでもあるって言いたいの?」 「まさか。トラウマ論なんてフロイト時代の悪しき伝説。あなたの心に暗い影を落としているのは、複雑性PTSDよ」  |心的外傷後ストレス障害《PTSD》……。それも複雑性PTSD。  美由紀は動揺するなと自分に言い聞かせた。 「ふうん」と美由紀はつぶやいた。「わたしが知らなくて、メフィスト・コンサルティングが知る事実ってわけね」 「あなたも薄々気づいていると思うけど。ファントム・クォーターから帰国したあと、あなたは日本の危機よりも水落香苗《みずおちかなえ》っていう娘を救うことを優先させたわね?」 「わたしは冷静な判断を下しただけよ」 「そうかしら。あの娘のことに心を奪われすぎて、一億三千万人が死滅するかもしれないって事実の重さに気づいてなかった、それだけのことでしょ」 「香苗さんと過去の因縁でもあったっていうの?」 「いいえ。あなたを必死にさせたのは、彼女が置かれた環境よ」  あのとき、水落香苗はPTSDに悩んでいると訴えてきた。その原因は……。  熟考すべきでない、美由紀はそう感じた。  ジェニファーが真実を語っている可能性などごくわずかだ。ミスリードの恐れもある。  自分のなかに残っている記憶の断片を問いただしたほうが、彼女の欺瞞《ぎまん》を防げる。 「相模原団地と関係ある?」と美由紀はきいた。  かすかな驚きのいろをジェニファーは浮かべた。「……どうやってそれを?」 「さあね。前にも頭に浮かんだ。メフィスト・コンサルティングに痛めつけられると、決まってその風景が浮かびあがってくる」  初めてメフィストなる組織の干渉を受け、赤坂支社のビルのなかに捕らえられたあのとき。電気ショックの拷問を受け、朦朧《もうろう》とする意識のなかで、たしかにまのあたりにした。  わたしは藤沢市の生まれだ、同じ神奈川でも相模原市には住んだことはない。それなのに、あの鉄筋コンクリートの公営住宅が、相模原団地だとわかっている。  不敵な微笑が、ジェニファーの顔に戻った。「記憶の一部を削りとったのが誰なのか、気になる?」 「いいえ。わたしはただ、失われたものを取り戻したいだけ」 「無くしたほうがいいものだってあるのに。あなたも昨晩は、そう望んだでしょう?」  美由紀は一瞬ひるんだ。  否定できない感情。なにかがわたしの心を引きとめようとしている。  それ以上、追及すべきでない。自制心がそう呼びかけてくる。  動揺は、自分で感じているより大きなものだったかもしれない。  窓の外に接近する人影に気づけなかった、そうわかったとき、美由紀は自分の注意力が散漫になっていることを自覚した。  ポアが自動小銃をフルオートで掃射した瞬間、美由紀は床の傾斜を滑り降りて遠ざかった。自分を狙い撃ちする弾が夕子たちに当たらないようにするためだった。  だが、そのせいでジェニファーとの距離が開いた。  間髪をいれず、ジェニファーは窓に向かって駆けた。  美由紀は身を翻して追おうとしたが、ポアは容赦なく掃射をつづける。壁ぎわを転がり、躱《かわ》すだけで精一杯だった。  ポアの援護射撃に助けられ、ジェニファーは跳躍して窓から外に逃れた。  銃撃がやんだ。美由紀が身体を起こすと、もうジェニファーとポアの姿はなかった。  すぐさま美由紀は夕子と幸太郎のもとに駆け寄った。 「無事?」と美由紀はきいた。 「ああ」幸太郎は怯《おび》えた顔でうなずいた。「だ、だけど……機関銃なんて初めて……」 「だいじょうぶ」美由紀は幸太郎の手を握った。「あいつらが狙っているのは、わたしだけだから。どうして姿を消したのか気になるけど……」  そのとき、夕子がつぶやいた。「地震よ」 「え?」 「地震だって。人工地震。ポアは活断層になんとかプラズマっていう爆弾を仕掛けにいったの」 「でも」幸太郎がおどおどしていった。「海上自衛隊が駆けつけたのに……。人工地震を隠蔽《いんぺい》する意味はもう……」  疲労しきった顔で、夕子はささやくようにいった。「ジェニファーたちは、東京じゅうの物件にかけてある地震保険で経費を回収するの。午後六時に爆発するってさ」 「六時!?」美由紀は息を呑《の》んで、腕時計を見た。「あと二分を切ってる!」  幸太郎もショックを受けたようすだった。「五時五十六分に呼びつけるなんて、ぎりぎりすぎるよ」  夕子はふくれっ面をした。「仕方ないじゃん。ケロロの幼|馴染《なじ》みの宇宙探偵|556《コゴロー》ぐらいしか思いつかなかったんだし」 「いいわ」美由紀は早口にいった。「わたしは爆弾の処理に向かう。幸太郎さん。夕子を運んで、ヘリポートまで行ける? 一分半以内に」 「ど、どうかな。わからないけど……」  だが、夕子に目を落としたとき、幸太郎の顔から動揺のいろは消えた。  夕子もじっと幸太郎を見返している。  しばらくその顔を見つめたのち、幸太郎は視線をあげた。「やるよ。やってみせる」 「その意気」美由紀は微笑みかけた。「じゃ、ハローワークで会える日を楽しみにしてる」  返事を待たず、美由紀は身を翻して窓辺に走った。  窓からバルコニーに飛びだしたとき、潮の香りとともに吹きつける風を全身で受けとめた。  非常階段を駆け降りながら、美由紀はジェニファーに揺さぶられた心を振り払おうとした。  いまもわたしは人々を救おうとしている。そのために全力を挙げている。決して自分の欲求を優先させたりはしない。そんな経験は、一度たりともない。 [#改ページ]   カウントダウン  美由紀は甲板タワーとドリルフロアーを結ぶキャットウォークを駆け抜けていた。  耳鳴りのように響く重低音が、風を切るような甲高い音に変化したとき、美由紀はミサイルの接近を感じた。前方に跳躍し、つんのめるように伏せる。  同時に頭上で爆発が起き、掘削|櫓《やぐら》の外壁が破片となって降り注いだ。爆風の感覚から、十メートルほどの距離があるとわかる。  海上自衛隊は人工地震を阻止するために出動しているが、掘削船のどこを攻撃すべきかを正確に把握してはいない。美由紀が防衛省を通じて知らせえた情報も、曖昧《あいまい》なものに終始せざるをえなかった。彼らはアヴァニ号が無断で日本領海を侵犯し、退去命令にも従わなかったという事実から、美由紀の通報に信憑《しんぴよう》性を感じとったにすぎない。  にもかかわらず、ミサイルで執拗《しつよう》に攻撃するのはなぜだ。しかも威嚇《いかく》ではなく、船そのものを狙っている。美由紀と幸太郎がモーターボートで先まわりして、この船に乗りこんだ事実を知らないことを考慮しても、自衛隊の割りには攻撃的すぎる。  起きあがって掘削部に目を向けたとき、美由紀はその理由を知った。  ロータリーテーブルとその周辺に、ジェニファーの部下らしき兵隊がいる。船員の作業服に見せかけたカーキいろの戦闘服を身につけ、弾帯をサスペンダーで吊《つ》るしている。十数人の兵隊たちは、M61A1の大口径機銃を据え置いて海上に掃射し、抵抗を試みていた。  美由紀はすかさず移動滑車《トラベリングブロツク》に飛び乗り、レバーを倒して降下した。  数トンとおぼしき巨大な足場がロータリーテーブルに落下すると、兵隊たちがあわてたようすで四方に散っていった。  その隙を衝《つ》いて美由紀は機銃の近くにいた男に飛びかかり、ハイキックのまわし蹴《げ》りで顎《あご》を蹴り飛ばした。機銃の砲座におさまると、その銃身を海から船上へと向ける。まだ近くで体勢を立て直そうとしている兵隊たちの、足もとに向けて掃射した。兵隊たちは逃げ惑い、周囲にひとけはなくなった。  砲座から離れた美由紀は、そのフロアーから下に伸びる梯子《はしご》を下った。  フロアーを支えるサブストラクチャーは、海面上に縦横に組まれた柱と梁《はり》の複雑な構造物だった。その隙間を縫うようにして、クレーンが海面に下ろされている。  海面には白い泡が立っていた。降下した物体は、すでに海中に潜行している。  思うが早いか、美由紀は梯子から空中に身を躍らせた。宙で一回転して身体を伸びあがらせ、頭を下にしてまっすぐに海面に落下した。  高飛び込みの経験はさほどあったわけではないが、水中に没した瞬間、おこないうる最良のフォームで飛びこむことができたと確信した。痛みはほとんどない。けれども、視界は泡に覆われている。ほんの数十センチ先も見通せない。  泡が消えていったとき、美由紀ははっとした。  二基のモーターを備えた水中スクーターがすぐ近くにある。その上には長さ一メートルほどの円錐《えんすい》形の弾頭があった。  核弾頭よりはスマートで、起爆装置と一体化している。爆発の数分前から発生する排気ガスを逃がすためのダクトが特徴的だった。間違いない、ベルティック・プラズマ弾頭だった。  スキンダイビングから深く潜るときの要領で、無人の水中スクーターに接近する。水深は十メートルほど、手を伸ばせば届きそうだ。  だがそのとき、スクーターの近くにいるのは自分だけではないと知った。水泡が背後から漂ってくる。呼吸音もわずかに聞こえた。  振りかえると、ウェットスーツとアクアラングで身を固めた女が、後方から水中銃でこちらを狙い澄ましていた。  鋭い音とともに銛《もり》が発射されたとき、美由紀は蝦《えび》反りになってそれを躱《かわ》した。  女は水中銃を投げだすと、ナイフを引き抜いて猛然と泳ぎ接近してきた。間近に迫ったとき、水中メガネを通してポアの血走った目がこちらを睨《にら》みつけているのが見えた。  攻撃を受け流そうとしたが、水中では身の動きは鈍かった。銀の刃は美由紀の腕を切り裂いた。  痺《しび》れるような痛みとともに、傷口から血が煙のように噴きだしていくのが見える。だが、傷口を庇《かば》っている場合ではなかった。  美由紀は腰をひねってドルフィン泳法で素早くポアの背後にまわると、チョークスリーパーホールドでポアの首を絞めあげた。じたばたと逃れようとするポアの手首をつかみ、握られたナイフの刃をレギュレーターの中圧ホースにあてがった。  ポアは激しく抵抗したが、美由紀は満身の力をこめ、ホースを切断にかかった。  手ごたえとともに、小爆発のように酸素が噴きだした。また泡が立ちこめる。息を吸えなくなったポアがもがき、手足をばたつかせた。  美由紀は、ホースの切断面に口を近づけ、噴出する酸素をひと息吸うと、ポアの背を蹴り飛ばすようにして離れた。  必死で水中を掻《か》きむしるようにしながら、ポアの身体は浮上していく。溺《おぼ》れずに無事に海面にたどり着けるかどうかは、彼女の力量しだいだ。こちらの心配することではない。  海底めざして降下をつづける水中スクーターを、美由紀は全力で追った。  手を伸ばし、スクーターのハンドル部分をつかむ。推力は相当なものだ。身体ごとぐんぐん引きずりこまれる。  もう時間は三十秒を切っているはずだ。起爆装置を止める方法もわからない。できることはただひとつ、この爆弾を海底活断層に向かわせないこと。それだけだった。  近くを漂う水中銃をつかんだ。ポアが手放していったものだった。  捕鯨用の銛だ。ロープがついている。かなりの長さがあるようだった。  美由紀は水中スクーターの前方にまわりこみ、スクリューを通して掘削船の底部に狙いを定めた。  扇風機の向こうにキーを投げこむことですら、人々には驚かれてしまう。だがいま、回転するスクリューの隙間を狙うことは、わたしにとってそれほど難しくはない。  引き金を引き絞った。強い反動とともに銛が発射される。回転翼の隙間を抜けた銛は海面へとまっしぐらに飛び、鈍い音とともに掘削船のサブストラクチャーに突き刺さった。  直後、ロープはスクリューに絡みついた。強力なモーターの回転がロープを巻きあげ、水中スクーターは垂直になって海面に上昇していく。  美由紀は水中銃を手放し、水中スクーターとは逆に深く潜りだした。  足で水中を蹴るようにして、闇に包まれた深海めざして降下していく。可能な限り、一メートルでも深く潜らねばならない。あと数秒で水中スクーターは掘削船の真下に浮上し、そして爆発が起きる。そこまで達することなく爆発が起きれば、威力は空中に逃れることなく、この一帯に巨大な渦を引き起こすことだろう。そうなればおそらく一巻の終わりだ。  そう思ったとき、頭上に閃光《せんこう》が走った。  爆発音は水中でもはっきりと轟《とどろ》いた。それから水中を衝撃波が駆け抜けていった。全身を締めつけるように水圧が高くなる。押しつぶされそうだ。  だが次の瞬間、急激に水圧は低下していった。  海面を見上げたが、泡だらけでなにも視認できなかった。息がつづかない。これ以上海中に留まることは不可能だった。浮上するしかない。  鉄骨や船体の外壁の一部とおぼしき破片が、次々と沈んでくる。それらの数も増えてきた。美由紀は障害物を避けて斜め上方へと泳いでいった。  もう力が尽きそうだ。浮力にまかせて海面に運ばれるのを待つ。肺にわずかに残った酸素を、ぎりぎりの状況まで蓄えつづける。  その最後の酸素を使い果たしたとき、美由紀の目は間近に迫った海面をとらえた。  伸びあがるようにして海面上にでた。波間に浮かび、立ち泳ぎをする。  陽は沈みかかっている。黄昏《たそがれ》の空の下、波は荒れていた。  静かだ。  少し離れたところで、掘削船が斜めに傾いているのが見えた。右舷《うげん》はほぼ完全に海中に没している。黒煙が噴きあがっていた。本来なら海面下に隠れているはずの機関部がのぞき、発電機が粉々に砕け散っているのがわかる。  爆発は掘削船を巻きこんだ。乗員は退避できただろうか。予測不能な爆発の犠牲になった者がいたかどうか、ここからではよくわからない。  ポアは、ジェニファーは、逃げおおせただろうか。まだ船内にいるかもしれない。海上保安庁の救助艇がきたら、巧みに乗り移って脱出する可能性もある。  だがそれよりも、美由紀は気にかけていることがあった。  辺りを見まわす。海上自衛隊の護衛艦は適度に距離を置き、被害を受けたようすもない。それ以外は、周囲にはなにも存在しない。一羽のカモメすら飛んでいない。  いや。そうではない。真上だ。爆音がする。  見上げると、空中停止《ホバーリング》飛行をしているUH60Jヘリがあった。  ヘリは高度を下げてくる。救助しようというのだろう。  その側面の開いたドアから、隊員とともに顔をのぞかせている男がいた。  鳥沢幸太郎だった。こちらに手を振っている。  美由紀は思わず笑った。自然に笑いがこぼれた。  もう彼が就職に二の足を踏むことなど、ありえないだろう。決死の覚悟で臨み、それを乗り越えることの意味を知ったのだから。 [#改ページ]   多面構造  東京を襲った直下型大地震から、三週間が過ぎた。  昼下がりの大久保通りは、以前の活気を取り戻していた。倒壊したビルの跡地では、すでに新しい建物の建設が着工している。  美由紀は歩道にたたずみ、その驚異的な復興のスピードに半ば呆《あき》れながら眺めていた。被害に遭ったのがこの一帯だけとはいえ、まるで風邪が治るかのように街並みが回復していくなんて。地震国だからこそ培われ、蓄積された知恵も少なくはないようだ。  雑居ビルのエントランスから、西之原夕子の甲高い声が聞こえてきた。 「だからさ」と夕子はいっていた。「格安で引き取ってくれていいって言ってんじゃん。それでここの支払い、トントンになるでしょ?」  ビルのオーナーとおぼしき男性は、本来なら強気にでる立場のはずが、すっかりやりこめられたらしく憔悴《しようすい》しきっている。夕子と並んで階段を降りながら、男性はいった。「それはいいんですけどね。配管や電気に不自然な工事を施した跡があるんですよ。地下の基礎にまで補強工事がしてあって……」 「そのおかげで地震にも耐えたんだから、文句ないでしょ。賃貸物件は原状回復で引き払うのが当然だって? せっかくの耐震補強を外していくの? 馬鹿馬鹿しい。インチキなビルが優良物件になったんじゃん。感謝したら?」 「イ、インチキって……」  夕子は美由紀を見て、足をとめた。  美由紀も無言のまま、夕子を見かえした。  ビルのオーナーにあいさつもせず、夕子はつかつかと美由紀のほうに向かってきた。  笑みひとつ浮かべることなく、夕子はいった。「不動産って嫌いなんだよね。貸すときにも借主の職業やら何やら知りたがるし、返すときにはあれこれ理由つけて金銭要求してくるし。そんなに気になるのなら貸さなきゃいいじゃん」 「株式会社レイカは解散なの?」 「しないって。法人の登記は残したままにする。本社はここじゃなくなるけどね」 「どんな業務をするつもり?」 「さあ。まだ決めてない。でもさ、ほかに就職できないんじゃ、自分で会社をやるしかないじゃん。のび太と同じ。最近のドラのアニメは絵がキモすぎて好きじゃないけど。やっぱ、藤子・F・不二雄みたいな天才がいなくなっちゃ終わりだよね。仕事ってそういうものだし。仕事が先にあるんじゃなくて、まず人があってのことだし」 「でも、無理にリーダーにならなくても、誰かのもとで働く人生もあるわよ」 「わたしにはそれはないの。わかってるでしょ。自己愛性人格障害じゃ雇われ人生は無理。どうせイラつくだけだし。不本意とわかってても怒りが抑えられなくなって、上司と喧嘩《けんか》。意地を張って辞めてやると吠《ほ》えて、それで終わり。反省もしない。それがわたし」 「そうばかりでもないわ。あなたは社会に適応しつつある」  むっとしたような顔で、夕子は美由紀を見つめてきた。「岬美由紀。わたしが改心したとでも思ってる? ピュアな心になって善人になって、一緒にお友達になりましょうって? おあいにくさま。わたしは以前と変わっちゃいない」  美由紀は穏やかな気持ちのまま、夕子の言葉を聞き流していた。  どんな悪態が口を突いて出ようと、彼女の本心でないことぐらい、顔を見ればわかる。 「夕子」と美由紀はいった。「愛情を得ているあなたが羨《うらや》ましいわ。あなたはそれで変わったのよ」 「……嘘」 「どうして?」 「あなたがわたしを羨ましがるなんて、そんなことあるわけないじゃん。あんな貧乏くさい男に惚《ほ》れられるなんて、ただ迷惑なだけよ」 「そうばかりでもないでしょう? 嫌ならとっくに別れてるんじゃない?」 「もっとイケてる男のほうがよかった」 「あなたの言うことを聞いてくれなくても?」 「それは嫌。わたしのほうに協調性がないし。コーヒーいれてくれ、なんて男に言われた日には、ぶちきれて熱湯浴びせてやるところだし」 「幸太郎さんには、そんなことしてないでしょ?」 「いまのところはね」 「今後もそうよ。あなたは幸太郎さんを必要としてる。彼のほうも、あなたがいてこそ真っ当に生きていけるって自覚してる」 「なんかやだな、そういうの。ただ依存しあってるだけじゃん」 「依存じゃなくて愛情なの」 「違うって」 「どう違うの」 「だからさ」夕子は口をとがらせながら、目を潤ませていた。「そんなふうに思えないんだって。幸太郎を信頼してるなんて、わたし自身、思えない。どうせ彼に気にいらないことがあったら、すぐ別れるとかなんとかわたしのほうから言いだすに決まってる。わたし、人を利用してる。そういうふうにしか付き合えないの。誰だって自分が一番大事じゃん。追い詰められたらそうなるじゃん。だからわたしは自分に正直に生きてる。どこがおかしいっていうの?」 「夕子。あなたはね……」 「美由紀、あなたに対してもそうよ。わたし、あなたを信用したわけじゃないわ。あなたみたいに強くて支持されてる人のそばにいると有利だとか、そういう価値観ばかり働かせてる。あなたの愛情が薄くなったと感じたら、またメフィスト・コンサルティングに入ってやるとか言って、あなたを困らせようとするのよ。馬鹿でしょ? でもどうせそうなる。そういう思考パターンから抜けだせないのよ。馬鹿よ、わたしは」  本気で悩んでいる。被害者意識を露呈したところで、誰も同情してくれない。そうわかっている辛《つら》さのなかに身を置いている。  その胸の内の苦しみを共感できる人間は数少ない。わたしはそのひとりでいたい。  美由紀は夕子を抱き寄せた。 「あなたは間違っていない、夕子。ただし、あなたが見ているのは真実の一面でしかない。世の中は多面構造で、ほかの見方もあるってことは、徐々にわかってくるわ」  夕子は涙声でつぶやいた。「どうせまた馬鹿をやる……。無性にお兄ちゃんを困らせたくなったときと同じように……。メフィストとか、悪の誘いに乗ろうとするときがくる。そのときには、わたし自身、それが正しいと信じて疑わなくなる。もし猜疑《さいぎ》心が生じても、自己愛を優先させてそれを振り払っちゃう……」 「心配いらないってば。あなたがメフィスト・コンサルティングに入るときは、もう永久に来ない。わたしが彼らを叩《たた》き潰《つぶ》す」 「……本気なの?」 「ええ。彼らはわたしの大事なものを奪った。その事実を知ったいま、許すわけにはいかない」 「でも、歴史を作ってる神様だって言ってるよ?」 「あいつらが神様のわけがないわ。人類史に彼らは必要ない。壊滅させて、そのことを証明する」  とてつもなく不可能に近い挑戦に思える。  だが美由紀は、その機会が訪れる日は決して遠くはない、そう感じていた。  運命は絶えずわたしを、メフィスト・コンサルティングとの対峙《たいじ》へと向かわせる。何度かの対決を経て、彼らの実態が少なからず社会の知るところとなり、方策や組織構成も明らかになりつつある。  失われたわたしの記憶がどんなものであるか、いつ、どのようにして失ったのか、真実はまだ闇のなかだ。  しかしそれは、わたしの人生の一部だ。わたしの歩んできた道だ。誰にも所有はさせない。この手に取り戻す。堕天使たちの思いどおりにはさせない。 「美由紀」夕子はささやくようにいった。「すごい人なのはたしかだよね、あなたは……。ひと声かけただけで防衛省の信頼を得て、海上自衛隊を出動させた。その後も国土交通省に働きかけて、掘削船の沈没は事故にすぎないってことにさせた」 「まあ、いままで何度か同じようなこともあったしね」 「メフィストが歴史を歪《ゆが》めて、あなたが戻して……。その繰り返しだね。いえ、その逆かもね。歪めてるのはあなたかも」 「……そうかもね。メフィストの作った人類史を正しいものとするならば。でもわたしは、人々の健全なる欲求にこそ善があると信じる」 「そんなに人を信じられる? お人よしすぎるかもよ。わたし、自分の本質が善だなんて、これっぽっちも思ってないけど」 「いいえ。あなたは自分が思ってるより、ずっと善人よ」 「どうしてよ」 「人の命を尊いと思っているから。忘れないで。ここにいる人々、東京という都市は、あなたの機転で救われたのよ」  夕子はゆっくりと周りに目を向けた。 「わたしの……」夕子はつぶやいた。  そのとき、耳に覚えのあるエンジン音が響いてきた。  オロチが近づいてきて、歩道に寄せて停車した。  運転席側のドアが開き、スーツ姿の幸太郎が降り立った。 「どうも、岬先生」幸太郎は笑顔で近づいてきた。「夕子さん、遅れてごめん」 「遅い」夕子はぴしゃりといった。「なに考えてんの? 雇われ人の分際で。もうオーナーとの話し合い、済んじゃったわよ」 「あ……そうなの。で、どうだった? 支払いのほうは?」 「経費が必要になったら、あなたの給料から差っ引くわ」 「ちょっと待てよ。そりゃないよ」 「さっさとエンジンかけて。伊勢丹《いせたん》に買い物に行くって言ってあったでしょ。忘れたの?」 「はいはい。じゃ、岬先生。また後日、ご連絡しますから」 「ええ……」美由紀は半ば呆然《ぼうぜん》としながらきいた。「このクルマ、本来の持ち主に返さなくていいの?」 「いいんです。その持ち主が気前よく譲ってくれましたから。なにか、夕子さんがうまく交渉してくれたみたいで」 「へえ……」  幸太郎は運転席に乗りこみ、またエンジンをスタートさせた。  夕子が美由紀を見つめてきた。 「美由紀。聞きたいことがあるんだけど」 「なに?」 「わたし、指名手配犯の西之原夕子じゃん……。通報しなくていいの?」 「顔が全然変わっちゃってるし。麗香は死んだし、あなたには新しい人生がある」 「見逃すつもりなの?」 「法の裁きから逃れることはできない。でもあなたは、現代の法規を超越した世界に片足を突っこんでしまった……。そして、あなたが立ち直るためにも、幸太郎さんの愛は必要不可欠だし。あなたにとってこれが最良の道だと、わたしは信じる……」 「後悔するかもよ」 「しない。そんな結果にはならない。絶対に」 「……美由紀。自己愛性人格障害のわたしは、本当に心から感謝することはないの。だから、お礼の言葉なんて口にしたって、そんなものはうわべだけ。それが常識でしょ。でも……」 「でも?」 「ありがとう」夕子は静かに告げた。「それだけよ」  夕子はまた潤みかけた目を伏せて、逃れるようにオロチの助手席に向かった。乗りこむと、二度と美由紀に目を合わせようとしなかった。  走り去っていくオロチを、美由紀は無言で見送った。  気持ちがどんなに揺れ動いていても、彼女は決して道を見失わないだろう。それだけはわかる。西之原夕子の真の強さはそこにある。彼女なら、人格障害を乗り越えられる。そのための第一歩を、すでに踏みだしている。 [#改ページ]   秋  九月の中旬。  出勤の時刻には、まだ太陽はさほど高くない位置にある。  気温も穏やかで、過ごしやすかった。  美由紀は本郷の臨床心理士会事務局に、定刻どおり出勤した。  ガヤルドを駐車場に停め、エレベーターで三階に昇る。  大勢の臨床心理士らが、きょうの出向先を確認するために掲示板を見にきている。美由紀はそれらの人々に挨拶《あいさつ》しながら、オフィスに入っていった。 「やあ、おはよう」舎利弗浩輔が顔をあげた。「けさも早いね。美由紀を見るとほっとするよ」 「どうして?」と笑いかえしながら美由紀はきいた。 「きみが出払ってないことが、この世の平和の証《あかし》に感じられるからさ。ここんとこ暇じゃないかい?」 「そうでもないわよ。夏場の地震の被災者は少なかったから、ケアにも時間がかからなかったけど、地方ではほかにも災害が起きてるし……。明日から鳥取に出張なの」 「へえ。きみみたいに優秀な人は引っ張りだこだな。人材が不足してるって専務理事も嘆いてたよ」 「あと半年もすれば、新しく資格を取得した人たちが入ってくるわよ」 「ああ、そうだ。きみと知り合いだった鳥沢幸太郎さんだっけ? カウンセラーの研修を受けているってさ」 「幸太郎さんが?」 「そう。受験資格を満たしてないから臨床心理士は無理だけど、心理相談員めざして勉強中だって」 「夕子の会社の社員じゃなかったのかな?」 「その彼女の会社がカウンセリングを生業《なりわい》とする方針なんだってさ」  カウンセラー。夕子自身もその職業を目指す気なのだろうか。どんなふうに看板を掲げるつもりなのだろう。  とはいえ、一時はハローワーク仲間だったふたりに、目標が見つかったことは喜ばしかった。 「よかった」と美由紀はいった。「舎利弗先生にとっても喜ぶべきことでしょ? 趣味が一致してたみたいだし」 「いやあ。それほどでもなかったよ。彼とはあれから電話で話したんだけど、アイアンキングとシルバー仮面の顔の違いがわからないみたいなんだ。もちろん身体を見れば一発なんだけど、顔もだいぶ違うんだけどね」  あいかわらず理解不可能な話が始まった。  相槌《あいづち》を打ったりしたら、きっとまたDVDをセットしはじめるに違いない。 「じゃ、けさは徳永《とくなが》さんとハローワークに行くことになってるから……」と、美由紀はオフィスを出ようとした。 「あ、ちょっと待って。美由紀。きみに届け物が来てるよ」 「わたしに? 誰から?」 「さあ。ええと、ああ、これだ。小包なんて珍しいね」  それは十センチ四方ほどの立方体の包みだった。  伝票が添えられていたが、差出人の名は記載されていなかった。  包装紙を破ると、紙の箱がでてきた。  開けてみると、なかには大小の赤い積み木が、隙間なくおさまっていた。  積み木を取りだしてみた。箱に、手紙などは添えられていなかった。 「なんだい?」と舎利弗がきいた。 「見てのとおり、積み木。それも、ぜんぶ真っ赤……。ずいぶん使いこんだものみたいね。傷だらけだし、何度も塗りなおした痕《あと》がある」  まるで見覚えのないしろものだった。幼児のころの記憶にもない。家に、こんな玩具《がんぐ》はなかったはずだ。  積み木自体、話題にしたことは一度もない。わたしに積み木遊びの趣味があると人に誤解される理由でもあれば、まだ納得もいくが、そんな話を他人にしたことはない。 「オークションででも注文したのかい?」 「まさか。宛名はたしかにわたしになってるけど……。覚えがないなぁ」 「間違いかもしれないよ。問い合わせが来るかも。包装しなおしておこうか? こういうのは得意でね」 「お願いします。保育所勤務の臨床心理士と間違えているかもしれないし」 「はいよ。任せてよ」  戸口から、同僚の徳永良彦が顔をのぞかせた。「美由紀。そろそろ行こうか」 「はあい。じゃ、舎利弗先生、また夕方ね」  オフィスをでて、徳永とともにエレベーターに乗り、一階まで降りる。  扉が開いて、秋の風が吹きこんできた。やわらかい秋の陽射し、並木の銀杏《いちよう》も降り注いでくる。  そんな銀杏の舞うなかに、美由紀は躍りでていった。  きょうもわたしを必要としてくれる人がいる。わたしはその人のために生きている。いつでも、そう信じられる。 [#改ページ]   「千里眼」シリーズを振り返って [#地付き]松岡 圭祐    この半年間、角川文庫から上梓《じようし》させていただいた「千里眼」新シリーズも、二〇〇七年七月現在、七十万部を超える売り上げとなりました。  旧「千里眼」シリーズの四百万部と併せると、著者である僕自身が驚くほどの数字となります。これもひとえに読者の皆様のお陰と思っております。心より感謝申しあげます。  従来、巻末には書評家の先生方の解説が載っているのですが、今回は僕のほうから現時点までのシリーズを振り返っていきたいと思います。  作品をお読みいただいたのならお判りの通り、「千里眼」は岬美由紀という、想像を絶するスーパーヒロインが活躍する話であり、完全な娯楽小説です。ただし、たんなる勧善懲悪のストーリーにとどまることは一度もなかったと考えています。毎回、僕には作品を通じて訴えたいテーマがあり、それを娯楽のなかに昇華させて、読者の方々に抵抗なく受けいれていただこうとしてきました。つまり、栄養があると考えられるものを、美味《おい》しく食べられるように調理してきたわけで、僕の感じるところの娯楽小説とは、そうあるべきものと思っています。  社会派小説のように直球で問題を扱った作品というのは、そのテーマ性の重さゆえに、読者は構えて読まざるをえません。映画や漫画のように、表現方法それ自体に画《え》を用いるなどして「受けいれやすさ」を高める方法もありますが、小説というジャンルでは、読者は文章を読み進まねばなりません。だから、本の読者というのは一般的には書かれているテーマに興味がある人だけが、読むというタスクを背負う船出に挑むのだろうと思っています。  こうしたことは、読書好きな方からすれば少々おおげさな物言いに思われるに違いありません。しかし、不特定多数の人々を考えると、そうでもないのです。  読書というのは、自律訓練法という自己暗示法と同じコツ、つまり「受動的注意集中」というものが必要になります。本来、注意集中というのは能動的におこなわれるわけですが、それを受け身の姿勢でおこなうという、ある意味で非常に難しい技術なのです。  本を読むのが嫌いという子供が読書を強制されると、ひたすら読みつづけようと努力します。が、これは能動的注意集中です。したがって、それは文字を目で追うという眼球の運動でしかなく、文章を理解することができません。読書は、読んだ文章に対し、読者が受け身の姿勢でその内容のイメージを浮かべるという仕組みによって成り立ちます。この「受動的注意集中」がもともと苦手な人や、うまくやり方を学べない人が、読書を楽しめない人になるということです。  こうした人々も含め、多くの読者にテーマを伝えたいというとき、どんな小説がそれを可能にするでしょうか。そこで僕が最も目的を果たしうると思った作法が、現実的なアナザーワールドの物語だったのです。ファンタジーほど現実から逃避せず、社会派ほど事実に密着しない境界線に、イメージを浮かべて楽しく夢中になれる空想の世界がひろがっているものと考えます。「千里眼」シリーズは、その受動的注意集中が最も働きやすい匙加減《さじかげん》を狙っているのです。  さて、匙加減と書きましたが、そういう娯楽小説の調理方法も、昔といまではずいぶん変わりました。  旧シリーズ「千里眼」第一作が発表されたとき、世間ではまだ私小説的な文芸がさかんだったように思います。「ハリー・ポッター」が流行するよりも前のことですから、とりわけ空想的で読みやすい小説といえば、ライトノベルというジャンルに属するものが中心でした。  当時のハードカバーの文芸と、ライトノベルの中間ぐらいを狙って書くことが、「千里眼」の当初の試みでした。いまではなんでもないことですが、当時はそういう作品がハードカバーで出ることはあまりなく、版元としてはどう受け取られるかまるで見えなかったようです。新鮮なチャレンジだったわけです。  とはいえ、現在の目で見ると、旧シリーズのとりわけ初期作の表現方法はかなり読みづらく、読者を制限しているように思えてきます。  これは、僕のデビュー作である『催眠』が刊行された一九九七年当時の文芸界の流行を引きずった作風だからです。かつて小説は「分厚いものほどお買い得感があってよい」とされ、その内容も「情報的な重みがある」ものが重宝されていました。 「千里眼」シリーズは情報のリアリズムに重きを置いてはいませんでしたが、文体はこれに近づけようとしていました。このため描写が非常に細かくなり、ページを文章が改行なしにびっしりと埋め尽くすという状況が珍しくありませんでした。  しかし時代は移り変わり、ケータイ小説やライトノベル、児童文学などがそのアプローチの手軽さから幅広い読者層を獲得するようになると、文芸のスタイルも変わってきました。  娯楽小説は、いかに多くの人々に楽しんでいただけるかを生命としています。そこで新シリーズ以降は、文章も無駄を省いて文体も極力シンプルに、テンポよく読み進められるものにしようと考えました。  旧シリーズを読みこなしておられた読書力の高い方々は、新シリーズのテンポは速すぎるように感じられるかもしれません。その場合は、以前よりもトルクの大きなエンジンを積んだクルマに乗ったとお考えになって、アクセルを緩めて楽にお読みになってください。快適さは、きっと前より向上していると思います。  本編を短く凝縮しても、小説一冊を書き上げる時間にそれほど大差はありません。むしろ短く抑えるほうが、長編よりも難しいところが多々あります。しかしながら、読者の方が読了されるまでの日数が短くなることはたしかでしょうから、新シリーズではそれだけ刊行のタイミングを早めているわけです。  時代が齎《もたら》した変化はそればかりではありません。自衛隊、心理学、さまざまな分野が進化したうえに、現実を踏まえて書くことが要求されるようになりました。かつては、社会的事実の嫌な部分を浮き彫りにしないためにあえて現実から遠ざかった設定を創造することもあったのですが、新シリーズではそのような手段を極力避け、可能な限りリアリズムに立脚するよう心がけています。  新旧の違いは以上の二点であり、「千里眼」シリーズそのものは、連続性を維持したまま継続されています。旧シリーズで描かれた事件は、すべて新シリーズの前に起きたことになっているのです。ただし、新シリーズでは、旧シリーズをお読みでない読者の方々にもお楽しみいただけるように、第一作『千里眼 The Start』で少し時間をさかのぼって描いたので、違和感なく入ることができるのではと思います。  さて今作では、旧シリーズから綿々と受け継がれる宿命の物語を描いています。  相模原《さがみはら》団地、カンガルーズ・ポケット、友里佐知子《ゆうりさちこ》と鬼芭阿諛子《きばあゆこ》、本能的拒絶……。これらの言葉が以前どこに出てきて、なにを意味しているのかを理解している方々は、かなりヘビーな旧シリーズの愛読者といえるでしょう。  その旧シリーズですが、二〇〇七年九月より、新シリーズ作品の刊行と並行しまして、全面改稿したうえで第一作から再文庫化され、角川文庫からリリースされます。  改稿のポイントは、新シリーズと同じく「読みやすさ」と「リアリズムの向上」のほか、時代を現代にすること、シリーズ共通の設定の細部に至るまでの統一、旧シリーズ執筆時に削除せざるをえなかった章の追加、余分な表現の削除など多岐にわたり、特に初期作は徹底的におこないます。ストーリーも、以前発売していたものとは異なります。  旧シリーズ「千里眼」第一作のリライトは先日終えましたが、新規読者の方々にはもちろんのこと、旧シリーズの愛読者の方々にも新作同然にお楽しみいただけるのではと考えております。鬼芭阿諛子や伊吹直哉《いぶきなおや》も、第一作の時点から登場します。  シリーズはどういう順番で読めばいいの? というご質問もたびたび受けるのですが、僕はどの作品から読んでもかまわないと思っています。岬美由紀は永遠に二十八歳ですし、物語は基本的に一話完結なのですから。  新旧いずれのシリーズの第一作でも、すべての背景が提示されているわけではありませんし、ばらばらに読んでいって後から思わぬつながりに気づくというのも面白いのではないでしょうか。新シリーズからお読みの方は、今後刊行されていく「千里眼」クラシックシリーズを並行してお楽しみになることで、より面白さが倍増すると思います。  スーパーヒロイン岬美由紀は、作中のみならず、小説のセールス面でも一度も敗北することなく八年間生きつづけてきました。これだけ多くの方々に愛されるキャラクターを世に送りだすことができたことは、著者にとって大きな喜びです。重ねまして、読者の皆様に深く感謝申し上げます。  また、一年前にテレビ東京系の番組「ブログの女王」で初めて知り合って、すぐに『霊柩車No.4』を出させていただき、いまはこうして「千里眼」を担当していただいている角川書店の津々見潤子さん。外国語に堪能でしょっちゅう世界を駆け巡っていらっしゃるあなたこそ、岬美由紀に新たな生命を与えてくれた本物のヒロインです。かつて夢にまで見て果たせなかった角川文庫への移行は、貴方《あなた》の手によって果たされました。永遠に担当していただけることを願っております。本当に有難うございました。 角川文庫『千里眼 堕天使のメモリー』平成19年7月25日初版発行